北の国へ

田中邦衛さんご逝去の報に接しました。そしてテレビでは「北の国から」の映像が流れました。富良野です。

1979年、全日空ビッグスニーカーバスツアーはその富良野を拠点として始まりました。当時の富良野は1977年に開催されたアルペンスキーワールドカップで名前が知られるようになったばかり。冬場だけスキーヤーが訪れる場所でした。今や大人気の富良野プリンスホテルも三角形のスキーロッジのような建物しかなく北の峰プリンスホテルと呼ばれていました。「北の国から」の放映開始は2年後の1981年、明治時代から栽培されていたラベンダーがA級の観光資源になるのももう少し後のことです。

なぜ富良野だったのか? 全日空の北海道観光開発に強烈に共鳴してくれたプリンスホテルとの戦略的な提携がありました。個人旅行による新しい旅の形を創ろうとする両者の熱量溢れる提携だったのですが、担当の私にすれば富良野プリンスホテルからの客室提供は真に”渡りに船”。添乗員も付かない、団体でもない、二人しか乗っていなくてもバスが来る理解不可能な航空会社のバスツアーに貴重な部屋を提供してくれる旅館など当時は皆無だったし、提供してくれたとしても良い部屋は取れず、夕食は石狩鍋なので二番煎じそのもの。まだ名もなき富良野が旅行業界の新参者だった全日空ビッグスニーカーバスツアーの第1泊目となったわけです。                                ところがツアーが始まると当時ファッション雑誌やガイドブックを片手に少人数で旅行をする”アンノン族”(もう死語ですが)を中心にプリンスホテルのサービスは大人気を博しました。北海道旅行定番の旅館ではなくリゾートホテルのサービスがピタッとはまったわけです。そして2年後「北の国から」の放映がスタートしました。もう富良野人気は止まりません。黒板五郎家族が住んだ丸太小屋などがあるロケ現場・麓郷の森には観光客が押し寄せたものです。

その後「北の国から」の主題歌が大ヒットしていた「さだまさし」さんのライブが夏の富良野で開催されたり、カラフルなパッチワークのような美瑛、ファーム富田などが人気となり富良野は通年観光を実現しました。多くの旅行会社が富良野を訪ねる旅行の企画を開始したところで全日空の役割は終了しました。元々旅行企画は特許が取れません。またビッグスニーカーバスツアーだけで全日空の北海道路線を埋めることもできません。「0を1」にすれば開発者全日空の役割は終わり。 「10」になった以降は極端な言い方をすれば、自然に増えていくのです。

全日空ビッグスニーカーバスツアー開始3年目のころ、富良野を撮り続けた写真家・故前田真三氏の写真を新しい旅行商品「北の国へ」のパンフレットに使用させていただきました。ハネムーナーを中心によく売れた旅行でしたが、それは「0が1」になった後の「10」までの過程の副産物みたいなものだったと思うわけです。あの時代「0を1」にすることが「仕事」、それ以降は「作業」だと叱咤激励されましたが、それはいつの時代にも必要な「熱量」だと思うのです。

自分の撮った画像を使用していますが、今回は前田真三氏の代表作です。
当時のパンフレットです。すでに旅行企画が「作業」になっていた時代ですが・・。

 

稚内の恩人

1979年に始まった北海道ビッグスニーカー号の旅は全日空営業本部による大々的なテレビコマーシャルの甲斐なく販売目標に届きませんでした。それでも10,000名近くの実績でしたが、旅行関連子会社の担当者だった私は会社へ行くのもビクビク。案の定「お前なんかクビだ!」と罵倒され、落ち込んでいると本部から呼び出しの電話。本当に”クビ”だと覚悟していたら「名誉挽回のチャンスをやる。ビッグスニーカーバスの道北ルートを考えろ!」との指示。1979年12月の事でした。ホッとはしましたが時間はありません。翌年6月には運行をスタートさせろとの指示。道北唯一の観光シーズンである夏場の宿とも契約しなくてはなりませんが、知っている宿はありません。まずは行ってみよう、と旭川のバス会社の方と一緒に陸路北へ向かいました。音威子府経由で稚内市に入ったのは夜。あたりは真っ暗。「稚内市に新しいホテルができた」と知人から聞き予約をお願いしておいた稚内グランドホテルへ到着しました。

遅い時間にも関わらず出迎えてくれたのは稚内グランドホテルの泉尚社長でした。新しいホテルと優しい笑顔の出迎えにホッとしましたが、泉さんとの遅い夕食と打合せが始まると”奇跡”のような展開が待っていました。東京でのサラリーマン生活の後、故郷稚内市に戻り春にホテルをオープンしたばかりの泉さんはビッグスニーカーバスの道北展開の話をジッと聞いてくれました。そして最後に優しい笑顔で一言。「伊豆さん、うちの客室ぜんぶ使ってください。利尻島では親戚が宿を経営しています。そこを使ってください。」私「ほんとですか~!」稚内市で一番新しいホテルの約30部屋を使う契約が成立しました。利尻島の宿まで付いて!

当時の道北観光はカニ族を中心とした若者たちが利尻島・礼文島へ渡る夏場の3か月だけが観光シーズンで、残りの9か月は超が付くオフシーズン。稚内市は道北経済の中心とは言え、観光としては利尻島・礼文島へ渡るための場所。そこにバス・トイレ付きの洋室のホテルを作るというチャレンジ精神・先見性、そして熱量は半端ではありません。翌日私は単身フェリー(当時は東日本海フェリー)に乗り利尻島へ。同じように優しい笑顔で利尻島の泉さんが待っていてくれました。こうして1980年夏、道北に全日空ビッグスニーカーバスが走り始めました。

コース名は「北緯45°31′の旅」。旅行代金は10万円超。「カニ族」には手が出ない金額なので、当時大人気だった利尻島・礼文島の高山植物や自然ではなく日本の最北端への旅であることをアピールしました。後になってボーダーツーリズムを知った時には何の違和感もなく、逆に当時の企画に名前を付けることができたように思えたものです。私は単なる担当者でしたが、国境・境界地域の観光産業の黎明期に立ち会うことができた幸運を今でも感謝しています。

あれから約40年。今春、泉さんは社長の椅子を息子さんに譲りましたが、まだまだお元気でボーダーツーリズムの良き理解者であり、正会員として応援もしていただいています。

稚内グランドホテル泉社長と。(同ホテルロビーにて。2019年)
礼文島から稚内へのフェリーから見た利尻富士。(2019年9月)

 

 

 

 

0を1にした「熱量」を追いかけて

昭和50年代の初めまで北海道への旅行はまるで海外旅行でした。”一生に1回”なのでできるだけ多くの道内有名観光地を慌ただしく周遊。各旅行会社の添乗員付きの団体バス旅行はどこも同じで,当時流行した歌謡曲の影響なのか”摩周湖”だけはコース名に付けて、ほぼ同じ行程・同じ食事。夕食が毎晩石狩鍋という話も聞きました。それでも当時は売れていたのです。摩周湖の立ち寄りは昼間のみで展望台で集合写真を撮って次の観光地へ大急ぎ。朝霧に霞む湖面や夕闇に包まれる湖畔など神秘的な摩周湖での体験はリュックサックを背負った当時「カニ族」(バックパッカー)の若者の特権だった時代でした。(私も1974年夏、その一人にもなりました。)

当時は大量の航空座席が大手旅行会社に預けられ団体旅行として販売されていましたが団体として催行できたのは約3割。野球に例えて3割バッターなら充分、と言われていました。インターネットもない時代、催行中止になったり売れ残った席が搭乗日間近になって7割返却されるわけです。航空会社はたまりません!そこで北海道スキーツアーの成功で「熱量」がさらに増大していた全日空は一人から行けて催行中止もないバス旅行を企画しました。「全日空ビッグスニーカー号」と命名されたバスが最初は1978年九州で運行を開始し、翌年北海道へと続きます。バス会社への委託とは言え航空会社がバスを運行するなど前代未聞。費用も莫大。売れ残った座席が返却されるリスクよりも1名から運航するバスの費用を選んだ先人たちのチャレンジでした。

世の中の個人の嗜好やニーズの多様化と合致しこのチャレンジは大成功。他の航空会社や大手旅行会社も追従し北海道に個人旅行を定着させることになりました。私は幸運にも北海道の最初の担当者となりました。まだ入社3年目の素人。旅の企画も初めての経験でしたが、周囲には0を1にした「熱量」を持った先人たちがいて彼らの眼鏡にかなわない企画は一刀両断で却下。”真似をしない””新しいことしかしない”という「熱量」に煽られ、先人たちを追いかける日々を過ごしました。

全日空ビッグスニーカー号は1980年夏に宗谷地区へも運行します。そしてスキー場がなくツアーの設定ができなかった冬の東北海道でも運行が始まりました。真に観光開発そのもの。全日空は日本初のDMC(ディストネーション・マーケティング・カンパニー)であったことは間違いありません。私にとっては宗谷地域、標津や根室地域などボーダーツーリズムの地域との出会いでもありました。

全日空のビッグスニーカーバス。サロンバス、2階建てバスなども登場し北海道個人旅行の貴重な交通手段となりました。
真冬の阿寒湖畔。(2016年2月)1980年代まで冬期はほとんどの宿が休館していました。
阿寒湖畔は原始の森林に囲まれています。許可をもらい森深く入ったらクマへの十分な注意も必要です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北海道へスキーに行く

2017年には年間観光客数がハワイを超え2019年には年間1,000万人を超えた沖縄観光ですが、全日空が沖縄キャンペーンを開始した1970年代には「湘南や千葉の海岸があるのに飛行機に乗って海水浴になんて行くはずもない」と嘲笑気味に評されたことを以前書きました。実は先人たちが北海道へのスキーツアーを始めた時にも「飛行機に乗ってさらに千歳空港からバスに乗ってスキーに行くはずもない!」・・沖縄と全く同じような評価だったようです。昭和47年(1972年)の冬のことでした。                           観光地が目指す共通の目標は「通年観光」、つまり一年を通じて観光客が訪れること、極端なオフシーズンが少ないことです。北海道は「通年観光」をほぼ実現しましたが、そのスタートは全日空のスキーツアーによる冬の需要喚起でした。観光立国政策が遠い未来だったあの時代の民間航空会社全日空の開発力、企画力、そして突進力の凄まじさは書き残しておかなくてはなりません。

私が担当した頃には冬の北海道観光にとってスキーは中心的な存在となっていて、ライバル各社との競争も激化し、北海道へスキーに行くことは真に当時の流行の最先端となっていました。ツアーの発売日には予約センターの電話回線がパンクし、局番が同じだった霞が関官庁の電話にも影響が出て大慌てしたり、発売日前日の夜から当時の営業所には行列ができ始め警察の指示で整理券を発行したり、”流行のど真ん中”にいる体験もさせてもらいました。

北海道スキー商品の準備は夏。今では世界中の富裕層が集まり通年観光を実現しているニセコも当時はホテルとは名ばかりの宿しかなく、その宿も夏は超オフシーズン!のため休館。農業や漁業と兼業していた宿の方方と夕方から打合せと称した飲み会が夜通し続きました。何しろ毎年倍々とスキーヤーが増えていたので打合せの”熱量”たるや半端ではありません。色々なアイデアが実現して行き担当者冥利に尽きる時代でもありました。

「観光」は日本を支える産業として政策となりました。観光学も盛んです。中央にも地方にも観光関連の組織もたくさんでき、多額の交付金もあります。しかし「何か違う?」と思うのはあの時代の”熱量”の中にいた年寄りの戯言?それとも観光立国時代を過ごしている現在の業界関係者への羨望なのでしょうか?

コロナ禍で苦境に立つ観光業界には今こそ凄まじい開発力、企画力、そして突進力を発揮する民間企業の「熱量」が何より大事だと思います。

全日空のビッグスニーカーバス、ビッグスニーカートレインは北海道に個人旅行を定着させる大きな役割を果たしました。

 

「比較する」面白さ

沖縄の聖地である斎場御嶽(せいふぁうたき)を初めて訪れたのは1995年ころでした。バブル崩壊後の低迷する沖縄観光に新しい観光テーマを作り何とか回復させたい、という思いで企画したツアーの添乗中のことでした。

そのテーマは「歴史」。首里城などの「グスク及び関連遺産群」が世界遺産に登録される前の事でもあり、取り上げる時代によっては大変難しいテーマ。選んだ題材は”琉歌と万葉集”の比較、”大和人と琉球人との精神性”の比較でした。残念ながら早逝された琉歌研究の第一人者、故嘉手苅千鶴子さん(元沖縄国際大学教授)と万葉集研究の大家、中西進さん(文化勲章受章者・元号「令和」考案者)が講演会場で繰り広げた万葉集と琉歌の比較、特に詠み人の精神・心の共通点にたどり着くまでの展開は100人を超える旅行参加者の知的好奇心を大いに刺激したと思います。そしてツアーの行程で訪れたのが斎場御嶽。今はパワースポットとして沖縄の観光名所ですが、当時は観光バスが近づくことも難しく、亜熱帯の植物がおい茂りヤドカリなどが住む処でした。遥拝場所からは天孫降臨伝説のある久高島を遠く望むことができました。

久高島と斎場御嶽を結ぶ線をさらに真っすぐに伸ばすと琉球王朝時代の大城だった首里城があります。アマミキヨという女神とシネリキヨという男神による国作り神話があり、15世紀頃の尚真王の時代には重要な神儀は斎場御嶽で行われていた伝承もあります。まるでイザナギとイザナミによる国づくり、天皇の名代として伊勢神宮に仕えた斎王にも通じ、琉球王朝の正統性を作り上げた過程での日本との交流を知ることができます。一方では中国・明時代(1368年~1644年)の対明朝貢回数は琉球王朝が第1位で171回、日本の19回、朝鮮半島の国々からの30回と比較しても圧倒的に多いとの資料があります。超大国・明に貢物を捧げることで自治権を維持する外交も怠っていなかったのです。まさに万国津梁の精神であり日本とは全く違う歴史を歩んでいた沖縄を改めて学ぶ必要もあるのではないでしょうか。

「比較する」面白さはボーダーツーリズムにも共通します。「比較する」ことにより”違い”や”共通点”を知り、現在の国境線が引かれる前の歴史や交流にも思いをはせることができます。

16世紀末から17世紀初頭の琉球王国を描いたNHK大河ドラマ「琉球の風」(1993年)のロケ地の碑。与那国島にあります。