1986年3月、成田=グアム線からいよいよ全日空が国際線の運航を開始し,同年中に一気にロサンゼルス、ワシントンDCに就航しました。”アイガー北壁”のようにそびえ立つJALに対抗するためにB747機材のビジネスクラスを2・2・2の横6列(JALは7列)にしたり果敢に国際線を拡大していきました。地方空港からのチャータ便の時代から全日空グループの海外旅行は全日空ワールドという会社が事業としていました。私のいた全日空商事は国内での経験を生かしてインバウンドを担当することになりました。しかしながら海外、主に北米のマーケットなんて全くわかりません。いつもの通り、わからないなら行ってみよう!ということで1986年3月、時の上司と英語が達者だった同期と私でアメリカへ向かいました。その珍道中はいつか書いてみようと思いますが,全日空が北米本土に飛ぶ前の話。その時の上司が「折角だからたくさんの航空会社に乗ろう、JAL以外の。それに全区間ファーストクラスにしよう」ととんでもない提案をしました。成田からまずはホノルルへユナイテッド航空、以降ホノルル=ロスアンゼルス、ロスアンゼルス=サンフランシスコだけはサウスウエストのエコノミー、サンフランシスコからニューヨークは今はなきパンアメリカン航空、帰りはシカゴ発アンカレッジ経由で成田まで。全てファーストクラス利用、宿泊もニューヨークでのウォドルフアストリアを筆頭に高級ホテルばかりの約10日間の出張でした。後にも先にもこんな豪華な出張の経験などありません。バブル前夜のバブル。
各都市ではJNTO(日本政府観光局)、旅行会社などを回りましたが、行程のほとんどは観光。しかしながらホノルル=ロスアンゼルスではオーバーセールスを解消するために”お金”で席を譲ってくれる人を募る(ボランティア、ボランティアと叫んでいました)場面に初めて遭遇したり、数年後には消滅するパンアメリカン航空の国内線機材がやけに”ぼろくて”心配になったり、定時運航ではなく一定数の乗客が乗ったら出発するサウスウエスト航空のオペレーションに驚いたり貴重な体験をたくさんしました。ウォドルフアストリアでは火事(ぼや)にも遭いました。
米国でわかったことは日本への観光旅行のマーケットは小さくて、日本から先、例えば香港、タイ、シンガポールなど「Beyond JAPAN」との組み合わせによるオリエント団体旅行が主体であることでした。過去に経験した”いつもの通り”の状況にやる気を駆り立てられたことを思い出します。ONLYJAPAN,個人旅行をやろう!帰国後すぐに報告書を書きました。当然のことながら「おまえがやれ!」となったのです・・・。