ボーダーツーリズム(国境観光) 日本最南端の島・波照間

八重山諸島の拠点(ハブ)・石垣島

八重山諸島は石垣島、竹富島など12の有人島と無数の無人の島からなり、石垣島がその中心であることは周知のことかと思います。コロナ禍前の石垣島への観光客数は年間約150万人。コロナ禍では大きな影響を受けましたが、八重山観光の中心として発展してきました。石垣市の人口はここ10年間を見ても48000人前後で推移し、本年7月には50000人を超え、人口減少・流出に悩む多くの有人離島とは少し異なる状況のようです。

そんな石垣島にあるのが具志堅用高さんのモニュメントで知られるユーグレナ石垣島離島ターミナル。八重山の島々とを結ぶ航路の中心拠点(ハブ)として、乗船・下船する日焼けした明るい笑顔の観光客や島民で賑わっています。

ユーグレナ石垣島離島ターミナル

尖閣諸島情報発信センター

そのターミナルの2階に2021年12月「尖閣諸島情報発信センター」が開設されたことを知る本土からの旅行者は多くはないでしょう。施設の中には尖閣諸島の各島に設置するために製作した標柱や尖閣諸島の3D模型(ジオラマ)などが展示されており、尖閣諸島の歴史を知り、紛れもなく日本固有の領土であることを再認識できます。入場料は無料。私は2度見学しましたが、観光客にも八重山諸島に渡る前にぜひ立ち寄って欲しい施設です。石垣島と台湾との距離は270㌔。沖縄本島までの410㌔よりはるかに近く、台湾有事等に備えて防衛省が石垣市に自衛隊配備受け入れを正式に要請。石垣市が要請を受諾し、新たな自衛隊駐屯地が今年3月に完成しました。現在、約570名の自衛隊員が駐屯し、観光という賑わいと防衛という緊張が同居する国境離島になっていることを実感することができます。

日本最南端の島・波照間島

私は2022年11月に日本最南端の島・波照間島を訪れました。波照間島はユーグレナ石垣島離島ターミナルから船で約70分。波高が高く欠航率が高い航路なのですが、今回は快晴、無風。快適な船旅の後、東京から来て島で結婚したという若い女性ガイドさんの話を聞きながらマイクロバスで島内を回りました。あくまでもペースはゆっくり。船の欠航率が高いこと、欠航すると食料などの日常品も届かず「大変なんです。」とさらりと苦労話を話すガイドさん。しばらく進むと珊瑚石を積み上げた「コート盛」と名付けられた“見張り台”がありました。外国船や琉球から中国へ渡る大和の船の通行を監視し、烽火(のろし)により、その通行を石垣島にある役所に通報することが目的だったとのこと。波照間島の最高標高は約60メートル足らずなので約4メートルの高さの「コート盛」に上がれば島を一望することができました。最南端の島発の通報は島々を経由して石垣島にあった役所まで届いたことでしょう。国境の島には烽火台があるのだな、と長崎県対馬を思い出しました。7世紀の中頃、白村江の戦で敗れた日本が朝鮮海峡を渡ってくる敵船を見張るために烽火台を置き、徴兵された防人が配置された対馬。故郷を思い焦がれた防人はたくさんの歌、防人の歌を残しました。波照間島で烽火を上げたのは誰だったのでしょうか。そして何を思い、何を残したのでしょうか。どこまでも青い海原を眺めながら遠い昔に思いを馳せました。

波照間島 日本最南端の碑

 

波照間島を歩く

その後は歩きながらの観光が続き、学校の正門前に着きました。竹富町立波照間小中学校です。大きな立派な校舎で、学校には約50名が在籍しているとのことでしたが日曜日でもあり校庭に子供たちの姿はありませんでした。島の人口は約500人、高校はないので子供の数の割合は少ないのでしょうか。ガイドさんの話では波照間島の妊婦さんは定期検診も船で約70分の石垣島まで行き、臨月の前には石垣島へ行き出産に備えるのとのことでした。費用はすべて島の負担とは言え、島での出産は大変なことと知りました。

全てが日本最南端

波照間のお土産には島の泡盛「泡波」がお薦めです。生産量の少なさ等から島外へはなかなか流通せず幻の酒と呼ばれた泡盛ですが照間酒造所で買い求めることができます。ピュアで本当に美味い酒です。島の酒造所も学校も郵便局も乾物屋も全て最南端。それだけでONLY-ONEですよね。

苛酷な条件がある波照間島に住むことは大変なことでしょう。でも島内を歩いていると旅行者の心は「幸せな空気」で満たされます。島の生活を知らなすぎると言われるでしょうが、日本の最南端に位置する波照間島は「天国に一番近い島」ではないか、と最後に訪れた“ニシ浜”の白い砂に立って思いました。

波照間島 西の浜

たどり着く旅こそボーダーツーリズムの魅力

観光業界で“安・近・短”という言葉があります。“安くて、近くて、短い”という売れる旅行商品の特徴を意味しています。確かに1泊しかしない海外旅行、“弾丸”と付いた旅行商品は今でも根強い需要があります。国境・境界地域への旅行はそんな“安・近・短”とは無縁です。“高・遠・長”の「たどり着く旅」です。たどり着いた旅行者の心は「幸福さ」で必ず満たされます。

天国に一番近い島、波照間島への旅は、美ら海の向こうに広がる国や地域との交流の歴史、国境離島としての今に興味を持つことによってさらにOnly-Oneの旅になります。それこそボーダーツーリズムの魅力なのです。

ボーダーツーリズム(国境観光)阿寒湖畔からオホーツク沿岸

ANA系の旅行会社で働いた時、冬のパッケージツアーの代表的な存在で“私をスキーに連れって”で大ブームに至る北海道スキーツアーや通年観光を目標とする航空会社にとって大事なテーマであった冬の東北海道の担当もしていたので北海道、特に東北海道には思い入れがあります。

光の森

阿寒湖には樹齢800年を超える桂の木々から漏れる陽光から「光の森」と呼ばれる原生林があります。今では所有者認定の”森の案内人”同行のネイチャーツアーが人気なようですが、私が初めて光の森に入ったのは1980年代。春はクマよけの鳴り物、秋は毒キノコを選別する目が必要なので”プロ”に同行していただいたことを思い出します。ご承知の通り、阿寒湖温泉は昭和9年に指定された日本最古の阿寒摩周国立公園に位置しているので、”クマゲラ”の子育て・巣作りが発見されて環境省からの勧告により森の散策プランも中止になったこともありました。森の中で白いミズバショウを見つけたら熊に要注意。体内の毒を出すために冬眠から明けた熊が食べるからです。

阿寒湖畔・光の森

 

前田一歩園

「光の森」は鹿児島県出身の前田正名が明治39年に国有未開地として明治天皇から拝領された約3600ヘクタールの「前田一歩園」の森のひとつです。3代目である光子さんの時代(昭和58年)に財団法人化されました。(現在は一般財団法人)今でもその子孫が管理しています。湖畔にある記念館には前田正名が東郷平八郎と撮った写真も飾られています。阿寒の地に立った正名は湖畔の景観に深い感銘を受け、晩年に「この山は、伐る山から観る山にすべきである」と語ったと伝えられています。(財団法人公式ホームページより)「前田一歩園」の「一歩」は「物ごと万事に一歩が大切」からをとって命名されたそうです。手つかずの森を守り育もうという姿勢だけではなく、明治の人の進取の精神、北海道開拓への強い思いも感じます。

アイヌコタン

アイヌの集落であるアイヌコタン。阿寒湖アイヌコタンには約120人が暮らしているとのことです。阿寒湖アイヌコタンも前田一歩園の3代目前田光子さんが関わっています。東北海道で厳しい生活を強いられてきたアイヌ民族の生活を守るために光子さんは私有地を無償で貸与し、昭和34年から各地のアイヌ民族が阿寒湖畔に移住したことが始まりです。今ではアイヌ古式舞踊の見学もできるアイヌシアター「イコロ」ができて、阿寒湖畔にしかない観光資源ともなっています。

アイヌ民族の生活・文化と手つかずの自然「光の森」を守り育むとは、阿寒湖畔の観光の「光」を守り育むことでもあると思います。

阿寒湖畔は国境・境界地域ではありませんが、長い歴史の中ではサハリン・カムチャッカ半島南部そして北海道オホーツク沿岸地域に広がっていたオホーツク文化との境界に位置しています。そしてオホーツク文化はアムール川下流地域にいた人々が渡来して成立した文化と言われています。毎冬に網走から知床半島を埋め尽くす流氷と同じルートです。ひがし北海道の観光にとって神秘的な物語ではないでしょうか。

国境を超えないボーダーツーリズム

令和5年10月に中標津空港を利用して久しぶり標津町に行きました。昔訪れた開陽台展望台からの360度の眺望は忘れることができません。遠く北方領土の島影まで見えることがあるそうです。今回は標津町に1泊しただけでしたが、晩秋の晴天に恵まれ、根室海峡の向こう約24km先の国後島、知床半島がはっきりと見ることができました。根室から標津・羅臼・知床峠・ウトロ・斜里・網走・紋別、そして稚内までの行程は自然豊かな北海道らしい観光ルートですが、国境を超えないボーダーツーリズムの体験がいくつもできます。根室から知床峠(夏季)までは北方領土が望めますし、根室市の北方館・望郷の家、標津町の北方領土館、網走市の道立北方民族博物館、モヨロ貝塚館など古代から現代に至る教育旅行にも適した施設がたくさんあります。

博物館網走監獄

博物館網走監獄は昭和58年7月にオープンしました。後に冬の網走を代表する観光体験となる流氷観光砕氷船もなく、関係者の方方は大変苦労されたと思います。長く網走監獄保存財団の理事長を務められ、平成29年2月に急逝された鈴木雅宣さんの卓越したアイデアと行動力もあり、網走を代表する通年観光施設となりました。網走監獄、明治初期には網走集治監と呼ばれ、不平士族や政治犯を収監しました。明治初期の北海道(特に東北海道)は未開拓の地が多く、時の明治政府はロシア帝国の脅威に対するためにも北海道の開拓が急務でした。囚人たちは道路建設や鉱山労働などの強制労働を強いられ、多くの犠牲者を出しました。囚人たちの悲惨さ、その歴史的な背景を知り、国境・境界地域の国防上の歴史的な役割を学ぶことは大変重要なことではないでしょうか。

阿寒湖の春
阿寒湖の春

ダークツーリズムに分類される施設の第一義が観光収入ではないことは言うまでもありません。ボーダーツーリズムも観光収入への貢献は少ないですが、当該地域の歴史、文化、自然、風土・風度を独特の観光資源にしていく大切な要素であり、取組みだと思っています。