万葉歌でも詠まれた珠洲の海
私は国文学者で万葉集研究の第1人者である中西進さん(文化勲章受章者)の民間団体の事務局をしています。できれば万葉集による地域の活性化のお手伝いができないものかと意見交換を重ねているのですが、昨年10月には富山県高岡市、氷見市に伺いました。
万葉集の編纂者と言われる大伴家持は746年、越中国主として今の富山県高岡市に赴任しました。国主の任務として能登地方も巡回したようです。能登巡回後、珠洲の海を朝に船出して、陸地づたいに富山湾を南下した家持は氷見あたりの浦を照らす月を見て「珠洲の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり」と詠みました。その珠洲の港が大きな津波にも襲われ、複数の船が転覆している画像が報道されたのを見て、ただただ胸が痛みました。
高岡市には万葉歴史館があり、高岡~氷見~羽咋の道には多くの万葉歌碑が設置され、万葉ロードとも呼ばれ、万葉歌碑魅力発信プロジェクトもあります。また臼が峰を越えて石川県宝達志水町へ通じる「臼が峰往来」は大伴家持だけでなく木曽義仲や江戸幕府の巡見使も通った官道として文化庁の歴史の道百選にも選定されています。北陸地方広域のアドベンチャーツーリズムとしても大きな可能性があるのではないでしょうか。
<古代の境界地域>
万葉集には天皇、貴族が詠んだ歌から防人や農民などの庶民が詠んだ歌まで幅広く収められているのは周知の通りです。防人は対馬で、大伴家持は赴任先の越中や多賀城などでも詠んでいます。当時の越中、多賀城、大宰府などの国府は見張り役や砦の役割も果たしていたと思います。それらの地は平城京から見れば辺境の地、つまり当時の律令政府にとっては境界地域でした。大和朝廷も対馬に防人を置き唐・新羅へ備えましたが、南北からの海流がぶつかる能登半島に流れ着いた者の中には狼藉を働いた者もいたことは容易に想像できます。また多賀城の北や大宰府の南は大和朝廷に服従したと言われる蝦夷(えみし)や熊襲(くまそ)、隼人(はやと)と呼ばれた民が住む地域でした。とは言え蝦夷などの先住の民たちが未開で凶悪だったとする当時の都側の記録を一方的に鵜呑みにすることはできないと、東アジアの古代史にも詳しい中西進さんの著書には書かれています。そもそも蝦夷も中国の匈奴も都側の記録にある呼び名であり、都側の言うことを聞かなかった民の蔑称。蝦とはガマガエルの意味だそうで、酷い名前を付けたものです。東北海道に住み都側と境界を接しておらず争うことがなかったオホーツク人は酷い名前も付けられなかったようにも思います。
沖縄県立博物館で見た古代の土器の模様が北海道で発掘された土器の模様に似ていて驚いた経験があります。境界線などない古代の人たちは海流に乗ったり、海岸線を歩いたりしてけっこう自由に往来していたようにも思えます。律令制が整った政府が最初に境界線を作り、静かに暮らしていた民を追いやり、争いを起こしたのかもしれません。
<時空を超えたボーダーツーリズム>
多賀城には大伴家持も晩年に赴任しました。家持は子供の頃には父である旅人と大宰府にもいた人で、中央政府に疎まれ、どうも大変な人生を送ったようです。それ故なのか家持の都への思いは強く、奥州で黄金が産出されて奈良大仏を造るために聖武天皇に献上された時には「海ゆかば」で始まる有名な長歌を詠み、忠誠の気持ちを表したようです。多賀城址にはその長歌の歌碑があります。私も25年ほど前に中西先生を講師に約100名の万葉ファンと訪れ、辺境の地に赴任させられた家持の都への強い思いを知りました。
多賀城は万葉集が読まれた北限であると同時に律令政府の支配した北限でもありました。当時の境界地域での拠点の一つだったという視点で見ると多賀城は行き止まりではなくその向こうの地域のことが見えてきます。真に時空を超えたボーダーツーリズムとしての多賀城の魅力ではないでしょうか。
<複眼的なボーダーツーリズム>
アドベンチャーツーリズムに期待されているのは「日本の本質を深く体験・体感できる」こととあります。本質にたどり着くにはステレオタイプにならず、様々な視点を加えて地域の旅のテーマを複眼的に深堀りすることが大事です。
ボーダーツーリズムも複眼的な視点を忘れずに、境界の向こう側との交流の歴史に加えて、万葉集など日本の文学や温泉と湯治文化との関り等も深堀りしていきたいと思います。
それは教育旅行としても意義ある取組みだと思っています。