ひがし北海道の観光

先日、たかだか1泊でしたが2年ぶりに「ひがし北海道」へ行ってきました。この時期は凍てつく長かった冬が終わり、沢には雪解け水が流れ、山菜が顔を出しています。今年は5月12日-13日といつもより早い時期だったので、コゴミと行者ニンニクが群れをなしていました。体内の毒を出すために冬眠から明けた熊が食べるミズバショウは咲いていませんでした。森の中での白い花は要注意なのです。

以前(光の森)も書きましたが、私が北海道の旅行商品の企画、ホテルなどの仕入れを担当し始めた1980年前後は、”一生に一度”の北海道観光がそのピークを迎えた頃でした。フリータイムはほぼ皆無で、添乗員付きの大型バスに乗り、3泊から5泊、北海道を一周するツアーの全盛期でした。釧路・旭川などの道内地方空港の容量は小さく、全国から千歳空港に到着し、ツアーが終わると千歳空港から帰るという1パターン。一方観光バスのルートは道東へ右回りで行くか、左回りで行くかの2者択一。右回りなら1泊目は層雲峡周辺、左回りなら帯広・十勝川周辺と分散されるのですが、お客様の目指すのは”霧の”摩周湖、硫黄山、森繫久彌が歌った知床でした。すると右回りでも左回りでも2泊目は阿寒湖温泉、川湯温泉、温根湯温泉となり、中でも旅館数が多く、客室数が多い阿寒湖温泉に宿泊が集中しました。当時は「阿寒を制するもの道東を制す」と言われる程、部屋の確保が難しかったのです。

当時の全日空のビッグプレジェクト”催行中止のない、バスツアー”(ビッグスニーカーバス)の担当だった私は阿寒湖に通い続けました。全日空の”看板”があったとは言え、どの旅館も我々に提供できる部屋などありません。それでも新参者の全日空に協力しよう!といくつかの旅館が部屋を提供してくれることになったのですが・・・。今だから書けますが、そこにとんでもない横やりが入ったのです。今も昔も旅行最大手の会社から阿寒湖中の旅館に「全日空に部屋を出すなら、我々からはお客様を送らない」という”おふれ”が回ったのです。さすがに阿寒湖畔中の旅館が”ビビり”、我々への部屋の提供はなし、となったのです。1979年6月1日からのツアースター。パンフレットもでき、テレビCMまで準備していた3月末のことでした。今考えてもヒドイ話です。結局、我々が使う阿寒湖の旅館の部屋はその旅行最大手の会社から買うことになったのですが、あの口惜しさが私の仕事のバネになったことは間違いありません。

そんな個人旅行黎明期を知り、全日空グループを支えていただいた阿寒湖畔の人々の多くは鬼籍に入られました。でも当時を知る担当者、あるいは2代目・3代目が頑張っています。今春はコロナ禍が続き、さらには知床での観光船の大惨事があり、阿寒湖の観光は厳しさを増しています。打開策としていた阿寒湖畔の森の散策プランも”クマゲラ”の子育て・巣作りが発見され、環境省からの勧告により中止。踏んだり蹴ったりのようです。

しかし、雄阿寒岳・雌阿寒岳の懐に抱かれた美しい阿寒湖、明治天皇から拝領された原生林が広がる前田一歩園、湯量豊富な温泉。そして何より、日本の観光の宝物とも言える東北海道の中心(ハブ)に位置するロケーションなどの魅力は色褪せていません。まずは地元の魅力を信じて、サービスの品質を維持することが大切ですよね、と当時を知るある旅館の責任者は言い、最後には「厄払いでもしてもらいましょう!」と笑って別れました。

来年の春も必ず訪れたいと思います。

2022年4月の阿寒湖付近の沢
2022年4月
阿寒湖周辺の桜