風土と風度 (2)

風土と風度。言葉遊びのようにも取られますが、地域創生には区別して捉えることが大事なことかと思います。風度はその地域での教育によって形成され、時を重ねてその町の空気・雰囲気となり、住む人たちの振る舞いに表れます。その振る舞いに訪れる人も魅了されます。嚶鳴協議会のメンバーである佐賀県多久市は孔子廟(孔子を祀っている霊廟)を建立した江戸中期の領主・多久茂文を先人として敬愛しています。多久茂文は教育や人づくりに孔子の教えを取り入れましたが、多久市では今でも「全市民が論語を語る」と言われています。論語カルタを作って子供たちの大会を開催したり、意味をまだ熟知していない幼稚園児までが論語を朗誦するそうです。多久市内の聖廟、孔子像、釈祭(しゃくさい)と呼ばれるお祭りなどは風土、町中ですれ違う子供たちが例外なく会釈をしてくれる振る舞いが風度ですね。訪れる人はその礼儀正しさに魅了されます。

コロナウイルスパンデミックが話題になり始めた2020年1月中旬、羽田空港第2ターミナル5階で「ふるさと先人展 国境のまちに生きた先人たち」を開催しました。主催はボーダーツーリズム推進協議会、嚶鳴協議会とPHP総研に協賛をいただきました。北海道礼文町は礼文島和人移住者第1号で礼文島におけるニシン漁に大きな役割を果たした「柳谷万之助」、稚内市は徳川家御庭番で樺太が島である事を確認し間宮海峡を発見した探検家「間宮林蔵」、長崎県対馬市は対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わった儒者「雨森芳洲」、長崎県五島市は第16次遣唐使船(804年)で五島より唐に渡った「空海」など国境・境界地域ならではの先人が紹介されました。中でも沖縄県与那国町の先人「サンアイ イソバ」は15世紀末から16世紀初めに与那国島を統治した女傑で、身の丈8尺(約2.4メートル)超。与那国島に攻めてきた琉球王国軍を先頭に立って撃退したという伝説があります。

日本の安土桃山から江戸時代に琉球王朝とも異なる統治の島があったことに驚きます。そしてこの歴史も日本の歴史であり、サンアイ イソバは与那国島の卑弥呼なのかもしれません。サンアイ イソバが与那国島の風度にどのように残されているかはわかりませんが、与那国島の矜持さえ感じます。境界線も永遠ではないこともわかりますね。

*サンアイ イソバ、後で調べると司馬遼太郎さんの「街道をゆく 沖縄・先島のみち」に登場していました。

ふるさと先人展 与那国町サンアイイソバ
ふるさと先人展 国境のまちに生きた先人たち(2020年1月・羽田空港第2ターミナルにて)

 

 

 

 

風土と風度

ふるさとの先人を通して「まちづくり、人づくり、心そだて」を実現しようとする市町連携があります。2007年に15の市町が参加して設立された嚶鳴協議会です。(事務局:PHP研究所)。ふるさとの先人を「偉い人だった」と顕彰するだけではなく、「地域経営の身近な素材」「地域からの情報発信の素材」としてその教えを伝えていく取組を現役の首長さんたちが語り合う場です。声がけは愛知県東海市の鈴木淳雄市長。嚶鳴とは鳥が仲良く鳴き交わす様子を表す言葉です。    嚶鳴協議会で検索できます。

東海市(尾張平島村)は江戸中期に儒教学者・教育家、細井平洲を生みました。市では平洲保育園、平洲小学校、平洲中学校など校名に名前をつけたり、道徳の時間には「道徳 平洲先生」という副読本を使い平洲の教えを市民、特に子供たちに伝え、理解してもらう取組みをしています。「学、思、行相まって良とする」、つまり得た知識を考え、人の役に立つ行いをすることが大事という教えにちなんで、良い行いをした小中学生を表彰する(学思行賞)ことも続けています。平洲は上杉鷹山の師匠でもあり、その教えは上杉鷹山の信条である「敬天愛人」に基づく後の米沢藩藩政改革につながります。毎年首長さんたちが集まりフォーラムをしたり定期的に勉強会を続けていますが、会のメンバーである釜石市が東日本大震災の大津波で大きな被害を受けた時には、応援の職員を派遣したり協議会市町で相互支援を行い学思行の実践もしています。

嚶鳴協議会のアドバイザー的な役目を務めているのが歴史作家・童門冬二氏です。毎年のフォーラムでは講話があり、私も拝聴しています。ある講話で地域には独特の景観・自然、史跡、美味しい食べ物など目に見え、手に取れ、味わえる「風土」とは別に目には見えず、手に取れず、味わえない空気のような「風度」があり地域を特徴付けている、とのお話がありました。観光での地域活性化の本質にもつながる指摘です。「風土」と「風度」が一緒になって訪れる人々を魅了するのです。    「風土」は重要な観光資源なので地方自治体の皆さんはそれを守り、磨き上げようとします。「風度」も同じく観光資源になりますが、それを守り磨き上げるのは教育です。

沖縄を例にとれば青い海・青い空・白い砂浜、琉球料理、首里城などの史跡など素晴らしい風土です。でも那覇空港に到着した時から心も体も包み込まれる空気、雰囲気は何でしょうか?沖縄の言葉、音階、笑顔、街角の作り方などが醸し出すものが訪れる人を魅了し、虜にします。先人たちから脈々と繋がるその土地ならでは魅力である「風度」を伝えていく取組、「まちづくり、人づくり、心そだて」が地域活性化に大切であり、独自の”おもてなし”の心を形成します。首里城は残念ながら焼失しました。建物は再建中ですが、同時に残さなければならないのは琉球文化、そして万国津梁を大切にする人であり、心なのですね。

さて国境・境界地域の先人とは?風度とは?次回はそれについて書いてみたいと思います。

嚶鳴協議会参加自治体

 

 

稚内赤レンガ通信所

NHK大河ドラマに取り上げられ視聴率が取れる時代は戦国時代と明治維新と言われますが、京都はその両方の舞台となります。東京からの新幹線が京都駅に近づいた時に見る東寺はいいものです。いつもわくわくします。京都の歴史は旅のテーマとしても超ド級、超A級なことは間違いありません。またドラマの主人公たちの生誕の地やゆかりの地も記念館を突貫で作り盛り上ります。旅行会社は一斉にツアーを募集します。多くの場合観光客増の効果は放映の年のみで限定的なのですが、大河ドラマの誘致のために地方自治体は”NHK詣で”をするようです。

とは言えドラマに取り上げられる歴史だけが日本の歴史ではないことは言うまでもありません。大河の流れではなくても支流や土砂が堆積してできた大小の湾処(わんど)に小魚たちが住み、水草が繁殖しているように些細だけど興味深い史実、史跡があり、人物がいます。日本の国境・境界地域はそんな観光素材、物語の宝庫と言えます。

その一つが稚内赤レンガ通信所です。太平洋戦争時、真珠湾攻撃を指示する暗号電文「新高山登レ1208(ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ)」が中継されたと言われています。敗戦後、米軍キャンプとなりその後は国の管理を経て現在は稚内市の所有となり、2019年には稚内市歴史・まち研究会が保存のためのクラウドファンディングも行われました。(私も応援させていただきました。)    稚内空港からわずか5kmにあり、太平洋戦争を知り戦争の悲劇を語り継ぐ大切な史跡であり物語なのですが,観光客が訪れることはあまりないようです。     私が初めて訪れたのもボーダーツーリズムに関わるようになった後の2018年9月でした。朽ち果てそうな赤レンガの建物、緑濃い丘陵の風景を見て涙が出てきました。そして市の教育委員会の斉藤さんの丁重な説明を聞き、日本の国境・境界地域の知られざる史実、史跡、人物を紹介していくこともボーダーツーリズム推進協議会の大切な役目だと意を新たにしました。

私が訪れた日は日曜日で稚内市街には駐屯する自衛隊と市民との交流会も開かれていました。市民も自衛隊員も笑顔でしたが、大通りに戦車(装甲車)が止まっており、国境のまち、稚内の一面を見ることができました。

稚内赤レンガ通信所(2018年秋)
当時使用されていた物が置かれていました。
駐屯する自衛隊と市民との交流会。大通りに止まっていた戦車(装甲車)

 

 

 

 

オホーツク文化(歴史を旅のテーマとすること)

全日空は1970年代後半から「歴史」をテーマとした文化事業を行ってきました。最初のテーマは「邪馬台国」。1978年に博多で開催され、以降東京で大手新聞社と共催で邪馬台国シンポジウムが開催されました。1979年の時には500名以上の”古代史ファン”が集まりました。私は担当者・添乗員として関わりましたが、邪馬台国が畿内にあったのか?北部九州にあったのか?などは全く興味がありませんでしたが「歴史」の集客力の大きさは強く印象に残りました。          以降、万葉集の旅は19回、源氏物語の旅も数回、単発では全日空歴史ツアーとして安土城築城の秘密を探る旅などが続きました。固定客が付いていると言うか、文化勲章受章者の中西進先生始め旅の先達をお願いした先生方の人気のお蔭でどのツアーも満席、お断りすることもしばしばで全日空グループの文化事業として定着していました。

それでは北海道の歴史をテーマとした旅を創ろう!と試みました。1998年のことでした。自然・景観・味覚・温泉など日本有数の観光素材を持つ北海道ですが、季節を問わず旅のテーマとなりえる「歴史」はあまりありません。そこで目を付けたのがオホーツク文化でした。                             オホーツク文化とは紀元7世紀から13世紀にかけてオホーツク海沿岸に存在した文化です。流氷がもたらず豊かな恵みを糧とし北東アジアや中国大陸とも交わっていた真に魅力的で謎に満ちた文化であり、流氷とともに来て流氷とともに消えた謎の古代人オホーツク人は牙製女性像やクマ像、青銅器の帯飾りや残しアイヌの先祖とも言われています。なぜ消えたのか?どこへ消えたのか?邪馬台国論争のようなブームになれば”古代史ファン”が東北海道に押し寄せるはずだ、との思いでした。 1998年7月、網走市民会館で大がかりなシンポジウムを開催しましたが、残念ながら”古代史ファン”が押し寄せることはありませんでした。

文字を持たなかったオホーツク文化は魏志倭人伝、万葉集、源氏物語、信長公記のようなものは残っておらず、ツアーやシンポジウムが考古学の専門的検証(古墳などの住居跡・土器などの出土品など)となってしまったことが原因でした。難しいものです。

残念な結果ではありましたが、歴史ツアーのヒットの秘訣は「文字」という教訓を得ることができました。そして何よりも”歴史を東北海道の観光のテーマ・素材に加える”という取組自体は網走市、道東の観光関係者の皆さんに高く評価していただけました。網走市の施設でのオホーツク文化の展示物の中には当時のレジュメ(シンポジウムの資料)が今でも置かれています。

網走などオホーツク沿岸から千島列島、サハリン(樺太)、間宮海峡をはさんでアムール川流域にまたがっていた「オホーツク文化」はボーダーツーリズムの旅のテーマでもあります。3世紀頃の日本列島を知る史料である魏志倭人伝、7世紀・8世紀頃に日本の隅隅で詠まれた歌を集めた万葉集を基にしたボーダーツーリズムの旅も知的好奇心を刺激する旅になると思います。

1998年7月に網走で開催された全日空歴史シンポジウム「オホーツク歴史浪漫」のレジュメ。中西進先生の寄稿もあり大変貴重な資料です。

北の国へ

田中邦衛さんご逝去の報に接しました。そしてテレビでは「北の国から」の映像が流れました。富良野です。

1979年、全日空ビッグスニーカーバスツアーはその富良野を拠点として始まりました。当時の富良野は1977年に開催されたアルペンスキーワールドカップで名前が知られるようになったばかり。冬場だけスキーヤーが訪れる場所でした。今や大人気の富良野プリンスホテルも三角形のスキーロッジのような建物しかなく北の峰プリンスホテルと呼ばれていました。「北の国から」の放映開始は2年後の1981年、明治時代から栽培されていたラベンダーがA級の観光資源になるのももう少し後のことです。

なぜ富良野だったのか? 全日空の北海道観光開発に強烈に共鳴してくれたプリンスホテルとの戦略的な提携がありました。個人旅行による新しい旅の形を創ろうとする両者の熱量溢れる提携だったのですが、担当の私にすれば富良野プリンスホテルからの客室提供は真に”渡りに船”。添乗員も付かない、団体でもない、二人しか乗っていなくてもバスが来る理解不可能な航空会社のバスツアーに貴重な部屋を提供してくれる旅館など当時は皆無だったし、提供してくれたとしても良い部屋は取れず、夕食は石狩鍋なので二番煎じそのもの。まだ名もなき富良野が旅行業界の新参者だった全日空ビッグスニーカーバスツアーの第1泊目となったわけです。                                ところがツアーが始まると当時ファッション雑誌やガイドブックを片手に少人数で旅行をする”アンノン族”(もう死語ですが)を中心にプリンスホテルのサービスは大人気を博しました。北海道旅行定番の旅館ではなくリゾートホテルのサービスがピタッとはまったわけです。そして2年後「北の国から」の放映がスタートしました。もう富良野人気は止まりません。黒板五郎家族が住んだ丸太小屋などがあるロケ現場・麓郷の森には観光客が押し寄せたものです。

その後「北の国から」の主題歌が大ヒットしていた「さだまさし」さんのライブが夏の富良野で開催されたり、カラフルなパッチワークのような美瑛、ファーム富田などが人気となり富良野は通年観光を実現しました。多くの旅行会社が富良野を訪ねる旅行の企画を開始したところで全日空の役割は終了しました。元々旅行企画は特許が取れません。またビッグスニーカーバスツアーだけで全日空の北海道路線を埋めることもできません。「0を1」にすれば開発者全日空の役割は終わり。 「10」になった以降は極端な言い方をすれば、自然に増えていくのです。

全日空ビッグスニーカーバスツアー開始3年目のころ、富良野を撮り続けた写真家・故前田真三氏の写真を新しい旅行商品「北の国へ」のパンフレットに使用させていただきました。ハネムーナーを中心によく売れた旅行でしたが、それは「0が1」になった後の「10」までの過程の副産物みたいなものだったと思うわけです。あの時代「0を1」にすることが「仕事」、それ以降は「作業」だと叱咤激励されましたが、それはいつの時代にも必要な「熱量」だと思うのです。

自分の撮った画像を使用していますが、今回は前田真三氏の代表作です。
当時のパンフレットです。すでに旅行企画が「作業」になっていた時代ですが・・。