風待ちの島(2)

2018年秋、私は真に貴重な体験の機会を逃しました。

ボーダーツーリズム推進協議会は「境界地域研究ネットワークJAPAN」(Japan International Border Studies Network)を母体としています。言うまでもなく国境・境界地域が抱える課題は観光活性化だけではなく交通、教育など多岐に渡ります。略称JIBSNは大学などの境界研究者と境界地域の自治体等の実務者が連携し,当該地域の調査研究とそれらの課題への対応を行うことを目的として2011年に設立されました。「学、思、行相まって良とする」を真に実践している団体で,境界地域でのセミナー開催だけでなく毎年ボーダーツーリズムの実践としてエクスカーションを行っています。例えば設立セミナーの際には与那国=台湾間をチャーター機を運航し、2017年の対馬セミナーの後は高速船で釜山へ渡っています。(2020年度はオンラインセミナーのみの開催)

2018年のJIBSNのセミナーは長崎県五島市で開催されました。私を含む日本全国からの参加者はバスや船を使って潜伏キリシタンの世界遺産構成資産などを見学し,五島市主催の夕食歓迎会では五島の味覚を楽しみました。しかしながらこの年のエクスカーションの目玉は五島つばき空港から韓国済州島国際空港までのチャーター機の運航でした。五島つばき空港にとっては初の国際線就航、当然出入国検査(CIQ)の設備などありません。ボーダーツーリズム推進協議会の事務局を務める旅行会社ビッグホリデーと五島市役所スタッフの努力により、50人乗りのERJ145(コリアンエキスプレス)を準備し、臨時のCIQ機能を整えたのです。私も久しぶりに半端ない”熱量”を感じたのですが・・・チャーター機に搭乗することはできませんでした。その理由は私的なことなので書きませんが、野口市長を含む49名を乗せた50人乗りジェット機をお見送りする役目となりました。

五島列島から一番近い外国は韓国済州島です。ジェット機での所要時間は正味30分ですが、直接交流できる交通手段はありません。わずか約200kmですが近くて遠い存在です。かつては黒潮にのった海民の交流があり、両島ともに溶岩海岸(済州島の火山島と溶岩洞窟群は韓国初の世界自然遺産)やツバキの島として有名で似通った景観があります。五島は空港の愛称になったり国際ツバキ会議が開催される程で世界的名花「玉之浦」が有名です。一方済州島にも観光スポットとして済州椿樹木園があります。(五島市久保副市長の毎日新聞日曜版コラムへの寄稿を参考にさせていただきました。)真に国境線を挟んで二つの島はシンメトリーのようですね。ボーダーツーリズムの魅力のひとつは国境線を挟んだ彼我を比較することにあります。五島列島と済州島の自然・地理を見る限り国境線に近づくにつれ、それぞれの国の色合いのグラデーションが薄くなるのでしょうか? そのことを自らが確認する機会を逃したことは返す返すも残念でなりません。

五島市のこのゲートウェイ、始発点への強い意識は風度ともなり、島は発展していくのだと思います。

五島つばき空港での仮設のCIQ(出入国手続き)

五島つばき空港と済州国際空港を往復したERJ145(コリアンエキスプレス)2018年10月29日

風待ちの島

長崎県五島列島は中国に一番近い日本の島のひとつです。遣唐使船の日本最後の風待ちの地として大変重要な島で、空海と最澄が乗船していた804年の遣唐使の船の風待ちも五島の島々だったようです。修行後の空海は福江島(南部 下五島)玉之浦大宝に上陸したのち五島の島々を巡り、多くの伝説を残しました。今でも「五島八十八ヶ所霊場めぐり」は静かなブームが続いています。

この島々の奇跡は真言宗の開祖空海と天台宗の開祖最澄が教えを残したことだけではなく、キリスト教の日本最初の布教の地でもあったことではないでしょうか。 キリスト教については歴史書の通り、徳川幕府の苛酷な禁教令に反発した島原・天草の乱が起こりました。2万人余りが殉教した悲劇の後、開府当初は曖昧だった鎖国も完成したと言われています。                       そして200年以上の年月を経た幕末。ローマ教皇は開国近い日本に再び宣教師を送り始め、宣教師たちは横浜に続き長崎にも鋭い尖塔を持つ大浦天主堂を建てました。そこに訪れた女性が神父にささやきました。「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」と。禁教下で心の中に信仰を守り続けた潜伏キリシタンの発見、奇跡の「信徒発見」です。潜伏キリシタンは表向きは仏教徒のように生活し、例えば天照大神像や観音像をマリアに見立てたり内向きにキリスト教を信仰していたようです。世界でも稀なこの信仰形態は潜伏キリシタンの文化的伝統として世界遺産として登録され、五島にも「久賀島集落」と「奈留島の江上集落」という世界遺産構成資産、20以上の教会があります。一方、遣唐使遺跡は「国境の島~古代からの架け橋~」として日本遺産にも認定されており、総面積が東京23区の三分の二しかない五島列島は世界遺産と日本遺産の両方がある奇跡の島々でもあるのです。

風待ちの島五島列島の沖合の海は歴史の通り道、回廊でもあります。遣唐使船に乗っていた空海も最澄も道標として上げられたのろし、篝火を見たことでしょう。また日露戦争の日本海海戦時に「敵艦見ゆ」の第1報を受信した通信所があったのが福江島の大瀬崎です。大瀬崎は太平洋戦争で南方へ出征する兵隊たちが最後に見た日本の風景とも言われています。鎮魂碑と祈りの女神像(1978年建立)が立つ丘から見下ろす大瀬崎灯台と広がる海原は一見の価値があります。

ボーダーツーリズム推進協議会のメンバーのおひとりでもある五島市の久保副市長はこう書いています。「五島のように国境地域にある離島はこれまで旅の到達点でしたがボーダーツーリズムを活用することにより始発点になることができます。その優位性を生かして島の振興につなげていきたい。」(毎日新聞日曜版コラム・旅するカモメ/ボーダーツーリズム 2018年9月9日掲載より)

国境・境界地域は日本の”端っこ”であり、”出入り口(ゲートウェイ)”でもあり、それが真に興味深い、独特の観光資源にもなっているのです。

五島福江島にて
大瀬崎灯台

 

 

 

 

 

風土と風度 (2)

風土と風度。言葉遊びのようにも取られますが、地域創生には区別して捉えることが大事なことかと思います。風度はその地域での教育によって形成され、時を重ねてその町の空気・雰囲気となり、住む人たちの振る舞いに表れます。その振る舞いに訪れる人も魅了されます。嚶鳴協議会のメンバーである佐賀県多久市は孔子廟(孔子を祀っている霊廟)を建立した江戸中期の領主・多久茂文を先人として敬愛しています。多久茂文は教育や人づくりに孔子の教えを取り入れましたが、多久市では今でも「全市民が論語を語る」と言われています。論語カルタを作って子供たちの大会を開催したり、意味をまだ熟知していない幼稚園児までが論語を朗誦するそうです。多久市内の聖廟、孔子像、釈祭(しゃくさい)と呼ばれるお祭りなどは風土、町中ですれ違う子供たちが例外なく会釈をしてくれる振る舞いが風度ですね。訪れる人はその礼儀正しさに魅了されます。

コロナウイルスパンデミックが話題になり始めた2020年1月中旬、羽田空港第2ターミナル5階で「ふるさと先人展 国境のまちに生きた先人たち」を開催しました。主催はボーダーツーリズム推進協議会、嚶鳴協議会とPHP総研に協賛をいただきました。北海道礼文町は礼文島和人移住者第1号で礼文島におけるニシン漁に大きな役割を果たした「柳谷万之助」、稚内市は徳川家御庭番で樺太が島である事を確認し間宮海峡を発見した探検家「間宮林蔵」、長崎県対馬市は対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わった儒者「雨森芳洲」、長崎県五島市は第16次遣唐使船(804年)で五島より唐に渡った「空海」など国境・境界地域ならではの先人が紹介されました。中でも沖縄県与那国町の先人「サンアイ イソバ」は15世紀末から16世紀初めに与那国島を統治した女傑で、身の丈8尺(約2.4メートル)超。与那国島に攻めてきた琉球王国軍を先頭に立って撃退したという伝説があります。

日本の安土桃山から江戸時代に琉球王朝とも異なる統治の島があったことに驚きます。そしてこの歴史も日本の歴史であり、サンアイ イソバは与那国島の卑弥呼なのかもしれません。サンアイ イソバが与那国島の風度にどのように残されているかはわかりませんが、与那国島の矜持さえ感じます。境界線も永遠ではないこともわかりますね。

*サンアイ イソバ、後で調べると司馬遼太郎さんの「街道をゆく 沖縄・先島のみち」に登場していました。

ふるさと先人展 与那国町サンアイイソバ
ふるさと先人展 国境のまちに生きた先人たち(2020年1月・羽田空港第2ターミナルにて)

 

 

 

 

風土と風度

ふるさとの先人を通して「まちづくり、人づくり、心そだて」を実現しようとする市町連携があります。2007年に15の市町が参加して設立された嚶鳴協議会です。(事務局:PHP研究所)。ふるさとの先人を「偉い人だった」と顕彰するだけではなく、「地域経営の身近な素材」「地域からの情報発信の素材」としてその教えを伝えていく取組を現役の首長さんたちが語り合う場です。声がけは愛知県東海市の鈴木淳雄市長。嚶鳴とは鳥が仲良く鳴き交わす様子を表す言葉です。    嚶鳴協議会で検索できます。

東海市(尾張平島村)は江戸中期に儒教学者・教育家、細井平洲を生みました。市では平洲保育園、平洲小学校、平洲中学校など校名に名前をつけたり、道徳の時間には「道徳 平洲先生」という副読本を使い平洲の教えを市民、特に子供たちに伝え、理解してもらう取組みをしています。「学、思、行相まって良とする」、つまり得た知識を考え、人の役に立つ行いをすることが大事という教えにちなんで、良い行いをした小中学生を表彰する(学思行賞)ことも続けています。平洲は上杉鷹山の師匠でもあり、その教えは上杉鷹山の信条である「敬天愛人」に基づく後の米沢藩藩政改革につながります。毎年首長さんたちが集まりフォーラムをしたり定期的に勉強会を続けていますが、会のメンバーである釜石市が東日本大震災の大津波で大きな被害を受けた時には、応援の職員を派遣したり協議会市町で相互支援を行い学思行の実践もしています。

嚶鳴協議会のアドバイザー的な役目を務めているのが歴史作家・童門冬二氏です。毎年のフォーラムでは講話があり、私も拝聴しています。ある講話で地域には独特の景観・自然、史跡、美味しい食べ物など目に見え、手に取れ、味わえる「風土」とは別に目には見えず、手に取れず、味わえない空気のような「風度」があり地域を特徴付けている、とのお話がありました。観光での地域活性化の本質にもつながる指摘です。「風土」と「風度」が一緒になって訪れる人々を魅了するのです。    「風土」は重要な観光資源なので地方自治体の皆さんはそれを守り、磨き上げようとします。「風度」も同じく観光資源になりますが、それを守り磨き上げるのは教育です。

沖縄を例にとれば青い海・青い空・白い砂浜、琉球料理、首里城などの史跡など素晴らしい風土です。でも那覇空港に到着した時から心も体も包み込まれる空気、雰囲気は何でしょうか?沖縄の言葉、音階、笑顔、街角の作り方などが醸し出すものが訪れる人を魅了し、虜にします。先人たちから脈々と繋がるその土地ならでは魅力である「風度」を伝えていく取組、「まちづくり、人づくり、心そだて」が地域活性化に大切であり、独自の”おもてなし”の心を形成します。首里城は残念ながら焼失しました。建物は再建中ですが、同時に残さなければならないのは琉球文化、そして万国津梁を大切にする人であり、心なのですね。

さて国境・境界地域の先人とは?風度とは?次回はそれについて書いてみたいと思います。

嚶鳴協議会参加自治体

 

 

稚内赤レンガ通信所

NHK大河ドラマに取り上げられ視聴率が取れる時代は戦国時代と明治維新と言われますが、京都はその両方の舞台となります。東京からの新幹線が京都駅に近づいた時に見る東寺はいいものです。いつもわくわくします。京都の歴史は旅のテーマとしても超ド級、超A級なことは間違いありません。またドラマの主人公たちの生誕の地やゆかりの地も記念館を突貫で作り盛り上ります。旅行会社は一斉にツアーを募集します。多くの場合観光客増の効果は放映の年のみで限定的なのですが、大河ドラマの誘致のために地方自治体は”NHK詣で”をするようです。

とは言えドラマに取り上げられる歴史だけが日本の歴史ではないことは言うまでもありません。大河の流れではなくても支流や土砂が堆積してできた大小の湾処(わんど)に小魚たちが住み、水草が繁殖しているように些細だけど興味深い史実、史跡があり、人物がいます。日本の国境・境界地域はそんな観光素材、物語の宝庫と言えます。

その一つが稚内赤レンガ通信所です。太平洋戦争時、真珠湾攻撃を指示する暗号電文「新高山登レ1208(ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ)」が中継されたと言われています。敗戦後、米軍キャンプとなりその後は国の管理を経て現在は稚内市の所有となり、2019年には稚内市歴史・まち研究会が保存のためのクラウドファンディングも行われました。(私も応援させていただきました。)    稚内空港からわずか5kmにあり、太平洋戦争を知り戦争の悲劇を語り継ぐ大切な史跡であり物語なのですが,観光客が訪れることはあまりないようです。     私が初めて訪れたのもボーダーツーリズムに関わるようになった後の2018年9月でした。朽ち果てそうな赤レンガの建物、緑濃い丘陵の風景を見て涙が出てきました。そして市の教育委員会の斉藤さんの丁重な説明を聞き、日本の国境・境界地域の知られざる史実、史跡、人物を紹介していくこともボーダーツーリズム推進協議会の大切な役目だと意を新たにしました。

私が訪れた日は日曜日で稚内市街には駐屯する自衛隊と市民との交流会も開かれていました。市民も自衛隊員も笑顔でしたが、大通りに戦車(装甲車)が止まっており、国境のまち、稚内の一面を見ることができました。

稚内赤レンガ通信所(2018年秋)
当時使用されていた物が置かれていました。
駐屯する自衛隊と市民との交流会。大通りに止まっていた戦車(装甲車)