万葉のまほろばを歩く(2)

「万葉のまほろばを歩く」では行程中に何度も中西先生の先導でその地縁の和歌や長歌を参加者全員で詠みました。前回書いたように”みちのくへの旅”では多賀城で黄金が出たことを賀して大伴家持が作った「海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍」が含まれる長歌を詠い、聖武天皇が東大寺の大仏を造営した時代に思いをはせました。この話には後日談があります。

「万葉のまほろばを歩く」の最終回となった”対馬への旅”の時、島西側の展望台に立ち朝鮮半島を眺めました。12月初旬のこの日、地元の人も驚くような雲一つない冬晴れで川のようにキラキラと流れる対馬海峡の先には釜山の町がはっきりと見えました。防人の島・対馬と朝鮮半島との間のこの海峡を数多くの船が行き来し、人々が往来したことを旅の参加者全員が実感した時でした。ひとりの年配の女性が「海行かば」を歌い始めたのです。最後には参加者全員の合唱となりました。「海行かば」には様々な思いや捉え方があると思いますが、その時の私は郷土を離れ対馬に派遣された防人を思い涙が止まりませんでした。また”みちのくへの旅”では阿武隈高地の山々を眺めながら「智恵子抄」を中西先生の先導で読み,”豊の国の旅”(大分県)では杖をついて竹田市岡城址に上り、「荒城の月」を歌いました。「万葉のまほろばを歩く」はそんな旅だったのです。

この種の企画にはお金がかかります。継続させることにも大変な苦労がありました。当時就航する路線の目的地(ディストネーション)の新たな魅力を探し出し、旅行商品にしてマーケットを開発することに全日空が力を入れていた時代でもありました。「万葉のまほろばを歩く」の時代にはDMOはありません。観光庁もありません。民間の会社が企画し、民間の資金で実施・継続させた時代でもありました。

第16回万葉のまほろばを歩く<豊の国の旅・平成12年11月>岡城址に上り参加者全員で「荒城の月」を歌う。

 

 

 

 

 

 

 

ボーダーです。

万葉のまほろばを歩く (1)

中西進さん。言わずと知れた万葉集の大家、国文学の大家、知の巨人です。元号令和の発案者として時の人になったことは記憶に新しいところです。先生とのお付き合いは25年以上となります。”お付き合い”とはおこがましいのですが・・・、私が長く勤めていた全日空商事(旅行部門)が19回にわたり実施した旅行企画「万葉のまほろばを歩く」に講師として、また行程の先達としてすべての回に同行していただきました。私は途中からの担当ですが万葉集が詠まれた”まほろば”(素晴らしいところ)を訪ねて日本各地、朝鮮半島まで出かけました。

「万葉のまほろばを歩く」の第1回目は昭和50年代後半、京都で開催されました。この”伝説”の発案者は私の師匠です。79歳になられる今でも冷めることない,私がいつも書く”熱量溢れる”人の代表で、一言,すごい人です。 さて、1回目。200名以上の参加者があり全日空商事(旅行部門)初の大型企画で失敗を許されない緊張の中、懇親会での料理が足りない、添乗員が寝坊する、バスが来ない、などなど後世に語り継がれる”伝説”的な1回目になりました。

資料と記憶を辿ると中西先生とご一緒した”まほろば”は沖縄,瀬戸内海,越前・湖北,多賀城など南東北,豊後国東半島,紀ノ川流域と伊勢神宮,扶余(韓国),大宰府と対馬です。毎回約1時間半の基調講演、行程中は要所要所で簡易な台に乗って説明をしていただきました。私は団長兼添乗員でお客様対応でじっくりお話を聞くことはできませんでしたが、それでも忘れられない語り、場面はたくさんあります。先生の大好物であるアイスクリームを一緒に食べたり、行く先々で写真も撮らせていただきその経験は真に人生の宝物でもあります。

さて「万葉のまほろばを歩く」にはもう一人、大事な方がいらっしゃいました。考古学、それも水中考古学の大家である故田辺昭三先生です。豪快で酒豪。旅館の大風呂に一緒に入り、お酒のお付き合いもさせていただきました。行程中、例えば宮城県の多賀城跡では、中西先生が大伴家持の長歌(海ゆかばの元歌)を朗々と先導し、田辺先生が発掘された出土物の特徴を語りました。それぞれの先生のファンは中西先生とともに歌い、田辺先生の話を熱心にメモを取られて、今思い出しても豊かで知的好奇心を満たす贅沢な旅だったと思います。その田辺先生が体調を崩されたのは最終回(19回目)の対馬への旅の直前。京都のご自宅までお見舞い伺いました。参加するお客様へ不参加を詫びるメッセージをお書きいただき、わざわざ玄関先まで見送っていただいたのですが、2006年2月帰らぬ人になりました。

中西先生からは北海道でアイヌ民族の叙事詩ユーカラと万葉集との比較をテーマに20回目をやりましょう、とのありがたいご提案をいただきましたが私の無精により「万葉まほろばを歩く」は19回で終了しました。(中西先生のご提案は後年「オホーツク人文化」の旅で実現しました。)

世はDX時代。ファストツアー全盛です。しかし「万葉のまほろばを歩く」のような旅を創る旅行会社はまだまだ頑張っています。根強いファンの高齢化が心配ですが、デジタル化できない土俵で企画力で活路を見出す努力を旅行会社は忘れてはならないと思います。

「万葉のまほろばを歩く」韓国編。説明をする中西進先生。右後方のサングラスの方が故田辺昭三先生。左後方に添乗員の私がいます。
百済の旧都である扶余にある皐蘭寺。新羅に攻められ3000人の百済宮廷官女が落下岩から身を投げた場面の絵を見る。

 

スケルトン

航空機を使った国内旅行が爆発的に成長した一つの理由はボーイング747(ジャンボジェット )に代表される乗客数500名前後の大型機の就航でした。私が担当者として旅行業務に携わっていた時代(1980年代)は、団体から個人旅行へのシフトが急速に進んでいましたが、Deregulation(規制緩和)前夜でもありました。機材は大型化していましたが、旅行運賃は認可制,マイレージなどのサービスも不自由な時代で、他社との差別化あるいは閑散期の対策等は旅行商品への依存度が高く、旅行会社の社員そして航空会社の営業マンが元気だった最後の時代だったかもしれません。

同じ沖縄のツアー、特に那覇市内ホテルに滞在するツアーなどは基本フリータイムなのでどこの旅行会社でも同じ内容で”一物一価”となり,旅行代金は下がるところまで下がります。となれば体力があり、販売力(当時は店舗数)のある大手旅行会社が有利。中小旅行会社、零細旅行会社は大手と対抗するためにも私たちが企画した全日空利用の旅行商品を競って売ってくれました。飛行機+ホテルだけのシンプルな旅行商品ではなく付加価値を付けて馬鹿らしい価格競争だけは避ける、その工夫の日々だったように思います。日本航空と東亜国内航空との「企画力」の競争は懐かしい思い出です。

飛行機+ホテルだけのシンプルな旅行商品を当時「スケルトン」商品と呼びました。インターネットを販売手段としたOTA(Online Travel Agent)はこの「スケルトン」商品を主力として一気にシェアを拡大しました。店頭中心で大量販売で稼いでいた既存大手旅行会社は焦りました。一方で時代はDeregulation(規制緩和)へ。運賃・マイレージなど多様なサービスを自由に展開できる時代となり正確無比なオペレーションを好む航空会社もOTAに惚れこみました。24時間いつでも予約可能、需要に応じてダイナミックに旅行代金を変動させることで”一物一価”に陥らなかったOTA旅行商品は国内旅行の主力となりました。所謂”ファストツアー”全盛、旅行会社の「企画力」は金がかかる代物となり、旅行先での着地型に取って代わられるようになりました。

コロナ禍の後、旅行には体験、交流に加えて「安全」という価値が求められます。スケルトンなファストツアーはどこまで「安全」を提供できるか?旅行会社には改めて「企画力」が求められていると思うのですが・・・。

 

 

 

 

光の森

阿寒湖温泉は阿寒摩周国立公園に位置しています。カルデラ湖である阿寒湖、その湖を悠然と見下ろす雄阿寒岳と雌阿寒岳、周辺は手付かずの原生林が広がる日本最古(昭和9年指定)の国立公園です。貸切バスによる周遊観光全盛(1980年代)のころ千歳空港を出発したバスはまずは道央(時計回りの周遊なら層雲峡温泉、反対周りの周遊なら十勝川温泉、糠平温泉、あるいは富良野)が第1泊目となり、2日目東北海道での観光を終えると宿泊は両回りともに阿寒湖温泉に宿泊するコースに人気が集まり,当時旅行業界では「阿寒湖を制する会社が道東を制す」と言われた程でした。人気の阿寒湖温泉の旅館の部屋が取れなければツアーが成立しなかったからです。旅館獲得競争、特に全日空と大手NO1旅行会社との”バトル”は当時業界でも有名な”酒の肴”になったものです。旅館への全日空(担当者は私)の要求は、全て2人1部屋・バストイレ付き。当時1部屋に4人、5人の相部屋は当たり前、温泉旅館になんでお風呂がいるの?と散々”素人扱い”されました。個人旅行の黎明期の話です。当時阿寒湖温泉にも”熱量溢れる”旅館人もいらっしゃり、助けられ励まされたのですが、今はもう多くの方が鬼籍に入られました。

そのお一人が5年前にご逝去された金行正行さん。阿寒湖の恩人です。生前、金行さんが愛したのが「光の森」です。鹿児島県出身の前田正名が明治39年に国有未開地として払い下げを受けた約3600ヘクタールの森を「前田一歩園」と名付けました。樹齢800年を超える桂の木々から漏れる陽光から「光の森」と呼ばれ、今でもその子孫が管理しています。私は20年以上、毎年金行さんと一緒に「光の森」のみならず周辺の森に入りました。春はコゴミや行者ニンニク、秋にはボリボリや落葉などのキノコを(許可をいただき)採ったものです。春はクマよけの鳴り物、秋は毒キノコを選別する目が必要なので阿寒湖の”プロ”が同行してくれました。この体験をツアーに取り入れ多くの旅行者を集め、今では前田一歩園認定の”森の案内人”同行のネイチャーツアーが人気なので当時からDMOのようなことをしていたわけです。全日空の”2人1部屋・バストイレ付き”確約のツアーが始まり、団体客ばかりだった阿寒湖温泉にスニーカーを履いた若い女性たちが毎日毎日バスから降り、温泉街を散歩するようになりました。旅館の人たちはビックリ!時代は個人旅行へ。「全日空さんと一緒にやる!」と賛同してくれたのが金行さんでした。

阿寒湖畔にある前田一方園記念館には前田正名が東郷平八郎と撮った写真が飾られています。「物ごと万事に一歩が大切」から「一歩」をとって命名した「前田一歩園」。明治の人の進取の精神、矜持を感じます。

阿寒湖にて。左が故金行正行さん。映画出演などアイヌ文化の普及に努める秋辺デボさんと。
阿寒湖「光の森」①
阿寒湖「光の森」②

 

 

○○ツーリズム

○○ツーリズム。○○でツーリズム(観光)の新しい需要を創造する、マーケットを創造する、と私は使っています。ヘルスツーリズム、エコツーリズム、そしてボーダーツーリズム、みな同じ使い方かと思います。近年、オーバーツーリズム(観光地にキャパシティ以上の観光客が押し寄せ様々な問題を引き起こすこと)という言葉が出てきて私も混乱してしまいましたが。

観光の仕事の中で○○ツーリズムを創り上げて行く過程が一番楽しいんですよね。DMOに期待していたこともありましたが、なかなか難しいようです。観光庁はDMOを「観光地経営の視点に立った観光地域づくりの舵取り役」と定義していますが、舵取り役、つまり”ハンドル役”が必要なのは、”半端ない熱量”を持って物事を推進する”エンジン役”がいてこそです。この”エンジン役”がいるDMOといないDMOとで成果に差が出ているように思います。

観光で地域創生を実現しようという政策は「観光立国政策」が初めてではありません。1987年にたった1日の審議で成立した総合保養地域整備法。その顛末を知る観光関係者は減りましたが、あの”悪法”の痛手は深く、今もその後遺症は消えていません。通称リゾート法、国民のゆとりある余暇を提供し地域振興を図るという理念の下、環境保全の規制まで大幅に緩和し財政上の優遇措置を行いました。時はバブル経済の最中、全国で42の構想が立ち上がりました。その構想ほぼ全てがゴルフ場・スキー場・マリーナに高級ホテルがセットされ「金太郎飴」と評されていました。北海道のトマムリゾート、宮崎のシーガイアリゾート・・・。多くのプロジェクトが破綻しました。野生動物、森林など環境への悪影響も甚大だったようです。

私は42の構想の中で、多くのリゾート施設と仕事をしました。特にトマムリゾートと宮崎シーガイアとは長いお付き合いをしましが、開業日にも現地におりました。極寒のJR北海道石勝線占冠駅のホームから眺めたスキー場とホテル客室の豪華さは今でも覚えています。オープン初日には開発企業のオーナーをモデルとしたテレビドラマの撮影まで行っていました。また宮崎シーガイア、753ルームのホテルの豪華さに驚きましたが全天候型室内ウォーターパーク、オーシャンドームには度肝を抜かれました。オープニングセレモニーのゲストは80年代のロックスター、スティングでした。今思えば、プロダクトアウトの典型、バブル型プロダクトアウトだったのでしょう。この二つのリゾートだけでも紆余曲折の歴史があり、多くの人が傷つき去って行きました。

21世紀になって日本の人口問題(減少・少子高齢化)は加速、特に地方自治体は深刻でした。一方、アジア諸国は経済発展により海外旅行、日本への旅行が増加することは間違いありません。必要なのは”箱物”ではないこともリゾート法の失敗という大きな代償を払ってわかっていました。まずは査証の緩和で間口を広げ、地域重視、着地重視、住民自らが参加して魅力を発掘し磨きあげよう、それが観光立国政策だと思います。さてコロナ禍で階段の踊り場で足踏みをする観光立国への道。響きの良いキャッチフレーズに惑わされず、大きな代償を払う前に地域毎にここまでやってきたことを真摯に見直す絶好の機会だと思います。

ワ―ケーション?ちょっと待ってよ!という”エンジン役”も必要なのですね。