香港からのスキーヤー

戦後日本の旅行業は”斡旋業”としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の将校家族や日本人のお金持ちたちの日光や箱根への旅行を手配する仕事から再開しました。航空禁止時代は1952年のサンフランシスコ講和条約で終わりましたが、一般の日本人が自由に海外旅行に行けるようになったのは1964年4月のこと。円を持ち出すことも制限されていたのでもっぱら外貨獲得ができる海外からの賓客の手配が海外業務だったようです。ヤンキースのスターだったジョー・ディマジオと銀幕のスターだったマリリン・モンローが新婚旅行で来日(日本には3週間滞在)したのは1954年12月1日のことでした。

前段が長くなりましたが 国内線と地方空港からの国際線チャーター便の運航しかしていなかった1980年代までの全日空にとってインバウンドは縁のない仕事でした。1980年代前半のある会議でのこと。会議とは当時、毎年”倍々ゲーム”で増えていた北海道スキーツアーの反省会でした。担当者は私。偉そうに実績などを報告していると全日空本部のある課長が一言。「全日空商事は商社だろう。いつまで国内だけで商売をしているんだ!」当時は小さな所帯だった国際販売課の課長からの”檄”でした。私は何を言っているのかよく理解できないまま早速香港へ行きました。全日空国際定期便就航前なので第1回目の出張は福岡空港からのチャーター便を利用。私以外の乗客は全て3泊4日のツアー参加者。ビルの合間を縫って香港啓徳空港(カイタック空港)に着陸した小さな全日空の機体(B727)は一番端っこに駐機しました。定期便ではない悲哀を感じたものでした。

全日空香港支店のスタッフは「待ってました」とばかりキャセイ航空、ノースウエスト航空、現地の旅行会社へ私を連れて行ってくれました。私にとって海外での初めての営業でした。当時香港は中国返還前。独特のチャンプルな雰囲気、料理は美味いし、歴史的な物語も興味深くて,すっかり香港が好きになり以降毎年営業に通うようになりました。今日の香港のニュースを見ると心底悲しくなります。     営業では香港在住の英国人子女が通うアインランドスクールから旧正月でのスキー旅行の発注を受けました。旧正月中、両親たちは欧米のスキーリゾートへ行くので子女はレッスンも兼ねて北海道へ、との話でした。親は欧米、子供は日本、という考え方に驚きましたが、複数の学校が相乗りしてきたので子供(中高生)の数は100名を超える大型団体となりました。日本滞在は1週間。ニセコヒラフ、ルスツ、狩勝などのホテルを貸し切り、私は手配から送り迎えまで付きっ切りで対応しました。香港からの100名超のスキーツアー、それも中高生のスキー合宿は当時珍しくマスコミにも取り上げられました。全日空香港定期便就航前の話なので日本までは香港の旅行会社が外航を手配し,国内線とホテル・バス・スキースクールなどの手配が私の仕事(真にインバウンド業務)でさらにアインランドスクール以外にも蔵王や苗場などの手配も入り、反省会での”檄”が実を結んだ取組みとなりました。しかし1985年9月のプラザ合意による急激な円高を契機に人数が減り昭和の内に終了しました。

何事にも黎明期があります。私はどうも成長期や全盛期の仕事には向かなかったようです。何回目かの香港出張の時には福岡までのチャーター便復路でコックピットに搭乗しました。往復同数でなくてはならないチャーター便の席がなぜか1席足らず、機長の後ろの席(ジャンプシート)をアサインされました。今では絶対に経験できないことですが、黎明期にはいろいろ起こるものです。それも含めて黎明期の楽しさは格別でした。

全日空スキーツアーのキャラクターだったスヌーピーと一緒にお出迎え。
千歳空港での歓迎式。

 

 

 

 

 

2021年8月16日