Beyond JAPAN (2)

1986年当時,日本人の海外旅行者は年間約550万人、訪日旅行者は約206万人でした。コロナ禍前の2019年にはそれぞれ3.6倍、5.8倍に拡大するのですから隔世の感がします。当時は旅行会社が訪日旅行に取組むことはビジネス(収益性)としてはそれ程魅力的ではありませんでした。今でこそ訪日旅行マーケットのトップとなった中国ですが、団体観光ビザ(査証)でさえ解禁が2000年のこと、アジアマーケットか沸騰するのも21世紀になってからなので、ターゲットは欧米諸国、特に太平洋路線で結ばれているアメリカでした。しかし、そのアメリカでさえ、日本は「オリエントツアー」の1つの訪問国。JTBのサンライズツアー(訪日外国人向けの日本国内ツアー)のカタログにもメインコースは東京都内観光、せいぜいBullet Train(新幹線)を利用する京都・大阪へのツアーがあるくらいでした。北海道一周、九州一周なども1~2コースあったように記憶していますが、売れることはまずなかったと思います。

しかしながら当時の私の所属していた部署は初めて手掛ける訪日旅行に異常なくらい盛り上がっていました。当時そんな言葉はなかったですが、北米からのインバウンドに「ブルーオーシャン」を見ていたのかもしれません。すぐにロスアンゼルスに訪日旅行専任の駐在員を置き、なぜかANAの国内線予約端末を置き、現地要員まで採用。ところが最初は”売る物”がありません。とは言えマーケティングしているだけでは”能がない”ので成田空港から東京都内までのリムジンバス乗車券の販売を始めたりしましたが商売にはなりません。大きな壁は当時のConsolidator(航空券を大量に仕入れ,超安値で売る業者)で、魑魅魍魎としていてANAの座席さえもその業者から買うのがルールでしたが全く席が取れないのです。めげずに北海道へのゴルフツアーを設定しましたが、訪日したのは日本でゴルフがしたかっただけの現地の旅行会社のスタッフのみ。こう書くと次に”大どんでん返し”があってビジネスが成功するようですが、アメリカでの訪日旅行の取組みは「Beyond JAPAN」に行きつく前に挫折、構想は失敗しました。

このチャレンジはインバウンドビジネスの特徴を知るために大変役に立ったことは間違いありません。香港では現地の旅行会社と組み、日本までの座席確保の業務(実はバックマージンがあり一番おいしい業務)を任せ、我々は日本到着以降の仕事に徹しました。つまりランドオペレーターに徹したことで香港発北海道スキーツアーの成功となり、台湾ではエヴァ航空の日本でのランドオペレーターとなり、彼らの就航に合わせて年間1万人以上の手配ができるようになりました。

今では成田空港・羽田空港を”ハブ”(中心拠点)としてアジアを中心に世界中の”スポーク”(拠点)に路線を結ぶ”ハブ&スポーク型ネットワーク”が形成されており、北米から日本経由でアジア、その逆パターンも需要が旺盛です。つまり世界規模の航空会社の連携、アライアンスの成果として「Beyond JAPAN」の航空ネットワークができあがっているのです。

1986年 ニューヨークにて。

 

 

 

 

 

健康と温泉フォーラム

2021年10月27日に開催された特定非営利活動法人「健康と温泉フォーラム」の第100回記念月例研究会にて講演をさせていただきました。その概要を掲載します。

1.ツーリズムにおけるコロナ禍の状況について

世界の航空会社は2020年1月、提供席数と搭乗実績(席数×距離)ともに2019年比100%を超えてスタートしました。そこに世界中でコロナ禍が始まり、世界中で一斉に状況は悪化し、底は4月でした。2020年4月は2019年同月比で提供席数12.4%、搭乗実績で5.7%、国内線をを含めて交流が止まってしまいました。以降、各国政府の政策、航空会社や空港などの工夫により徐々に回復はしていますが今年の8月の段階でも提供席数で53.8%、搭乗実績は44.0%と2019年の半分程度の回復でした。やはり国際線が復活していないことが理由ですが、過去のイベントリスク、例えば9.11米国同時多発テロ、イラク戦争、リーマンショックなどでも大きく数字を落としましたが、多くの場合、影響は1年、翌年V字に近い回復をしており、約2年もの間、航空需要が低迷を続けているコロナ禍は100年に一度、破格のイベントリスクです。収束の見通しは未だ立っておらず、国際線を含めてコロナ禍前に戻るのは2024年という予測があるように、各地の温泉地としても訪日観光客に期待することは当分難しいのではないでしょうか。

国内線だけの今年8月の状況を見ると、世界各国の平均の搭乗実績は2019年比で67.8%と国際線よりも回復基調にあります。日本は搭乗実績40.2%と世界の平均から見ると低い数字ですが、8月は1日感染者が2万人を超える日もあり、緊急事態宣言中で外出自粛だった時なので当然な数値かと思います。一方アメリカは2019年の数字に近くなっていますし、欧州、特にロシア国内線は2019年を上回る搭乗実績となっています。これはwithコロナ政策を打ち出した結果ですが、最近のロシアのコロナ感染者数の急増は周知の通りです。コロナ禍が始まった時、航空輸送は世界中で一斉に状況は悪化しましたが、回復についてはワクチン接種率、マスクの習慣、国毎の生命の安全・健康と経済活動の政策の違いが色濃く反映していることがわかります。

長崎県対馬市のコロナ禍の状況です。対馬にもなかなか良い温泉もありますが、国境に位置する特性を生かして観光の活性化をするボーダーツーリズムに取組んでいる、有人国境離島のひとつです。福岡まで124キロですが韓国・釜山までは50キロの距離で、2018年、日本人来島者は約15万人ですが、40万人を超える韓国人観光客が来島しました。しかしながら2019年の日韓関係悪化・ボイコットジャパンで半減しコロナ禍で2020年3月から今日まで韓国人観光客はひとりも来ていません。対馬は2つのイベントリスクに見舞われています。す。しかしながら対馬市の累計の感染確認者数は累計34名と極めて少なく、昨年の7月まではコロナ感染者0の島でした。またこの1年10カ月、大都市圏では毎日感染者が報告されていますが、対馬市で感染が確認された日数はわずか16日のみなのです。このように対馬市はコロナ感染を最小限に止めましたが、観光は大きな損害を受けたわけです。コロナ禍の特徴のひとつは、日本中、世界中が被災地であることで、例えば大きな自然災害を被った被災地へ支援ツアーなどで応援する、従来型の被災地支援ができないことでもあります。

以上、新型コロナウイルスパンデミックのイベントリスクとしての影響の大きさについて、3つの視点で報告をさせていただきました。

2.ワ―ケーションについて

 さて私が言うまでもなく、新型コロナウイルスパンデミックの影響で一番大きな特徴は「人々の生活様式や価値観への影響」です。一気にリモートワークが普及したわけです。これはコロナ禍が収束しても残って行く生活様式、価値観だと思いますが、そこにワ―ケーションの可能性が高まってきたわけです。以下は私の仲間、スタッフたちのワ―ケーションについての意見です。

「温泉地でのワ―ケーションをどう思うか?」については、「半日集中して仕事をして疲れたら散策、温泉に入る1日は最高」だという意見もある一方、「行ったことがない温泉地がワ―ケーション候補として選ばれることは稀ではないか」、「過去に行ってとても良かった経験によってワ―ケーションの地として選ばれるのではないか、つまり「まずはプライベートでその温泉地自体を好きになってもらう、ファンになってもらうことが大事」ではないか、という意見が印象に残りました。 次に温泉地でのワ―ケーションのターゲットとしては「20代後半~30代前半の独身あるいはフリーランスの家族がターゲットになりやすい」「温泉地から近い都市部で働いていて且つリモートワーク可能な職種の人が第1のターゲットになるであろう。マイクロワ―ケーションが最適か?」、「花粉が飛ばない温泉地であれば花粉症の人をターゲットとした春先に時期を絞った一時的な花粉症退避プランは受けそう」だという面白い意見がある一方、「サラリーマンの場合そもそもリモートが定着している企業ではないとワ―ケーションはしない」「家族連れなら温泉地にはワ―ケーションではなくバケーションで行きたいと思うのではないか」特に「遠隔地の有名な温泉地に行くとしたら仕事ではなくレジャーで行きたいと思う人が多いのではないか」という意見が多かったです。向いている職種としては「企画プランナー、開発関連の職種、営業職やクライアントワークの職種は難しいのではないかという意見。また温泉地の旅館やホテルに用意しておいて欲しいものとしては「時間制限のないWi-Fi環境」、アーリーチェックイン・レイトチェックアウトサービスなどがあり、あるスタッフは夜食を挙げていました。彼は、夜、仕事をしていて夜食を食べたくなったが、旅館でも食べられず、町に出ても店が閉まっていて「夜食難民」になったとのことでした。また半月程度の滞在となると、健康管理のためにも「睡眠の質」が大事で、ワ―ケーションには自分に合った枕を持って行くことをお勧めしたい、との意見も印象的でした。

ワ―ケーションはアフターコロナにおける観光再生計画の中心にも据えられてもおり、環境省が推進する新・湯治プランのメニューにも適しており、温泉地の活性化に寄与するものと期待されてもおります。温泉地は環境としては、温泉・自然・地元の食材など、ワ―ケーションには大変良い環境であり、ワ―ケーションプランを実施している温泉地のホテル・旅館内のワーキングスペースは快適だという高い評価で共通していました。しかしながら、リモートワークを多くの人が経験したとは言え、温泉地でワ―ケーションを定着させるには いっそうのマーケティングや準備が必要な気もしております。

私が言うまでもないことばかりかと思いますが温泉地でのワ―ケーションについて簡単に報告をさせていただきました。

 

Beyond JAPAN (1)

1986年3月、成田=グアム線からいよいよ全日空が国際線の運航を開始し,同年中に一気にロサンゼルス、ワシントンDCに就航しました。”アイガー北壁”のようにそびえ立つJALに対抗するためにB747機材のビジネスクラスを2・2・2の横6列(JALは7列)にしたり果敢に国際線を拡大していきました。地方空港からのチャータ便の時代から全日空グループの海外旅行は全日空ワールドという会社が事業としていました。私のいた全日空商事は国内での経験を生かしてインバウンドを担当することになりました。しかしながら海外、主に北米のマーケットなんて全くわかりません。いつもの通り、わからないなら行ってみよう!ということで1986年3月、時の上司と英語が達者だった同期と私でアメリカへ向かいました。その珍道中はいつか書いてみようと思いますが,全日空が北米本土に飛ぶ前の話。その時の上司が「折角だからたくさんの航空会社に乗ろう、JAL以外の。それに全区間ファーストクラスにしよう」ととんでもない提案をしました。成田からまずはホノルルへユナイテッド航空、以降ホノルル=ロスアンゼルス、ロスアンゼルス=サンフランシスコだけはサウスウエストのエコノミー、サンフランシスコからニューヨークは今はなきパンアメリカン航空、帰りはシカゴ発アンカレッジ経由で成田まで。全てファーストクラス利用、宿泊もニューヨークでのウォドルフアストリアを筆頭に高級ホテルばかりの約10日間の出張でした。後にも先にもこんな豪華な出張の経験などありません。バブル前夜のバブル。

各都市ではJNTO(日本政府観光局)、旅行会社などを回りましたが、行程のほとんどは観光。しかしながらホノルル=ロスアンゼルスではオーバーセールスを解消するために”お金”で席を譲ってくれる人を募る(ボランティア、ボランティアと叫んでいました)場面に初めて遭遇したり、数年後には消滅するパンアメリカン航空の国内線機材がやけに”ぼろくて”心配になったり、定時運航ではなく一定数の乗客が乗ったら出発するサウスウエスト航空のオペレーションに驚いたり貴重な体験をたくさんしました。ウォドルフアストリアでは火事(ぼや)にも遭いました。

米国でわかったことは日本への観光旅行のマーケットは小さくて、日本から先、例えば香港、タイ、シンガポールなど「Beyond JAPAN」との組み合わせによるオリエント団体旅行が主体であることでした。過去に経験した”いつもの通り”の状況にやる気を駆り立てられたことを思い出します。ONLYJAPAN,個人旅行をやろう!帰国後すぐに報告書を書きました。当然のことながら「おまえがやれ!」となったのです・・・。

ジョン・レノンが暗殺されたニューヨークのダコタ・ハウスの前で。念願が叶った1枚。

 

 

 

 

 

香港からのスキーヤー

戦後日本の旅行業は”斡旋業”としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の将校家族や日本人のお金持ちたちの日光や箱根への旅行を手配する仕事から再開しました。航空禁止時代は1952年のサンフランシスコ講和条約で終わりましたが、一般の日本人が自由に海外旅行に行けるようになったのは1964年4月のこと。円を持ち出すことも制限されていたのでもっぱら外貨獲得ができる海外からの賓客の手配が海外業務だったようです。ヤンキースのスターだったジョー・ディマジオと銀幕のスターだったマリリン・モンローが新婚旅行で来日(日本には3週間滞在)したのは1954年12月1日のことでした。

前段が長くなりましたが 国内線と地方空港からの国際線チャーター便の運航しかしていなかった1980年代までの全日空にとってインバウンドは縁のない仕事でした。1980年代前半のある会議でのこと。会議とは当時、毎年”倍々ゲーム”で増えていた北海道スキーツアーの反省会でした。担当者は私。偉そうに実績などを報告していると全日空本部のある課長が一言。「全日空商事は商社だろう。いつまで国内だけで商売をしているんだ!」当時は小さな所帯だった国際販売課の課長からの”檄”でした。私は何を言っているのかよく理解できないまま早速香港へ行きました。全日空国際定期便就航前なので第1回目の出張は福岡空港からのチャーター便を利用。私以外の乗客は全て3泊4日のツアー参加者。ビルの合間を縫って香港啓徳空港(カイタック空港)に着陸した小さな全日空の機体(B727)は一番端っこに駐機しました。定期便ではない悲哀を感じたものでした。

全日空香港支店のスタッフは「待ってました」とばかりキャセイ航空、ノースウエスト航空、現地の旅行会社へ私を連れて行ってくれました。私にとって海外での初めての営業でした。当時香港は中国返還前。独特のチャンプルな雰囲気、料理は美味いし、歴史的な物語も興味深くて,すっかり香港が好きになり以降毎年営業に通うようになりました。今日の香港のニュースを見ると心底悲しくなります。     営業では香港在住の英国人子女が通うアインランドスクールから旧正月でのスキー旅行の発注を受けました。旧正月中、両親たちは欧米のスキーリゾートへ行くので子女はレッスンも兼ねて北海道へ、との話でした。親は欧米、子供は日本、という考え方に驚きましたが、複数の学校が相乗りしてきたので子供(中高生)の数は100名を超える大型団体となりました。日本滞在は1週間。ニセコヒラフ、ルスツ、狩勝などのホテルを貸し切り、私は手配から送り迎えまで付きっ切りで対応しました。香港からの100名超のスキーツアー、それも中高生のスキー合宿は当時珍しくマスコミにも取り上げられました。全日空香港定期便就航前の話なので日本までは香港の旅行会社が外航を手配し,国内線とホテル・バス・スキースクールなどの手配が私の仕事(真にインバウンド業務)でさらにアインランドスクール以外にも蔵王や苗場などの手配も入り、反省会での”檄”が実を結んだ取組みとなりました。しかし1985年9月のプラザ合意による急激な円高を契機に人数が減り昭和の内に終了しました。

何事にも黎明期があります。私はどうも成長期や全盛期の仕事には向かなかったようです。何回目かの香港出張の時には福岡までのチャーター便復路でコックピットに搭乗しました。往復同数でなくてはならないチャーター便の席がなぜか1席足らず、機長の後ろの席(ジャンプシート)をアサインされました。今では絶対に経験できないことですが、黎明期にはいろいろ起こるものです。それも含めて黎明期の楽しさは格別でした。

全日空スキーツアーのキャラクターだったスヌーピーと一緒にお出迎え。
千歳空港での歓迎式。

 

 

 

 

 

屈伸する覚悟

前回の投稿から1カ月近く経ってしまいました。季節は真夏となり、それも外出・飲食が不自由な夏。23日からは東京オリンピックが始まりました。選手たちの活躍は素晴らしいのですが,対比するようにコロナ感染者が急増し、「ロックダウン」まで現実味が帯びる状況となっています。個人的には2度のワクチン接種は終わりましたが感染が身近に近づいている恐怖は増しているように思えます。交流、特に海外との交流再開はまだまだ先のようです。

先日NHKBSプレミアム「プロジェクトX」の再放送で戦後初の国産民間旅客機YS11の開発が取り上げられていました。第2次世界大戦中の1944年11月、シカゴに52か国が集まり戦後の国際民間航空の枠組みが協議されました。その時米国のフランクリン・ルーズベルト大統領が日本(ドイツもイタリアも)の航空の「完全禁止」を宣言しました。「ゴム紐で飛ばせる模型飛行機より大きい物体を飛ばすことは一切禁じる。」と言ったとされます。そして終戦。日本は保有していたすべての飛行機を連合国に没収され、(その後すべて破壊・焼却)1952年4月のサンフランシスコ講和条約までの約7年間、日本の航空禁止時代が続きました。私は航空機に関して詳しくはありませんが、日本で未だに国産ジェット旅客機ができないのは戦後7年の空白が遠因ではないかと思ってしまいます。「プロジェクトX」ではYS11開発に携わった戦時中の航空機設計者(ゼロ戦の堀越次郎氏、飛燕の土井武夫氏)と若手設計者のチームが紹介されていましたが、本格的なYS11開発のリーダー役を務めたのが東条英機の次男、東條輝雄氏であることを初めて知りました。またこの番組に共通する当時の官民一体となった「日本を一流の国にするんだ」という熱量を感じ、不覚にも目頭が熱くなりました。真に”ものづくり大国”を目指していた先人たちの「覚悟」に感動します。私の尊敬する文化勲章受章者の中西進先生は「日本人には屈伸力がある」とおっしゃいました。何もかもなくなった焼け野原からの「屈伸」はとてつもない「覚悟」だったと思います。その「覚悟」はこのコロナ禍から復活するDNAとして日本の”ものづくりの会社”には受け継がれていることにも感動します。

さて観光大国を目指している日本。観光産業はすそ野が広いと言われています。しかし、すそ野が存在するためにはその中心に核となる産業、運輸業・宿泊業・旅行業などの観光関連産業が断固としてそびえ立っていることが必要だと思います。山の高さとすそ野の広さは比例するからです。コロナ禍から復活する「屈伸力」を観光関連産業は持っているのか?「屈伸」する「覚悟」はあるのか?

すそ野が広いとは「みんなで渡れば怖くない」ではありません。今こそ観光関連産業、特に旅行業にその「覚悟」が問われているのではないでしょうか?