ボーダーツーリズム(国境観光)佐渡島

佐渡島との出会い

私が初めて佐渡へ渡ったのは1980年代初めの頃。佐渡を旅行商品化するための出張の旅でした。もちろん当時も佐渡島への航空機の就航はなかったのですが、新潟空港と千歳・福岡などを結ぶ路線の需要喚起のために佐渡ツアーを企画しようという目論見でした。遠い昔なので詳細な記憶はありませんが、まだ存在していた羽田から仙台への便に乗り、さらにこれも当時はジェット機で運航していた便で新潟空港へ向かいました。当時は航空自由化の前。今以上に旅行商品が路線の需要喚起の手段として重要だった時代だったので新潟路線を旅行商品で何とかしよう、という試みだったように思います。

楽しみだったのは新潟から佐渡まで乗るジェットフォイル。航空機と同じでボーイング社が製造し、佐渡汽船が日本で初めて導入したBoeing Jetfoilでした。新潟港から両津港まで1時間少々。沖縄の島々での企画を活かして航空会社らしい若者にターゲットを絞ったツアーにしよう、と意気込んで下見をしたことを思い出します。新規需要の喚起が目的だったので、たらい船体験などの人気の観光素材はあえて組込みませんでしたが、下見で印象に残ったのは金銀山。V字に割れたような露天掘りの山の姿に人の欲の凄まじさを感じました。そう言えば緯度や経度で決められたアフリカの国境線も直線が多いです。人の手がかかると直線になるのでしょうか。また鉱石処理を行った北沢浮遊選鉱場跡はまるでアニメ「天空の城ラピュタ」のようです。

残念ながらその時の佐渡ツアーの成果は少なく、新潟と仙台を結ぶ路線は廃止になってしまいました。最近になって新潟空港を拠点とするトキエアが今年4月には仙台に就航するというニュースがあり、楽しみにしているところです。

「島 日本編」

「島 日本編」という大変面白い本があります。(講談社・2004年発行)執筆者のおひとり長島俊介さんは世界27カ国1650島を訪れたという「島達人」と紹介されており、日本国内にある400以上の有人島全てを訪れた島研究の第一人者です。私はお会いしたことはありませんが、2018年4月から2019年3月まで毎日新聞「日曜くらぶ」に全51回掲載されたコラム「ボーダーツーリズム/旅するカモメ」への寄稿をお願いして「佐渡島」を書いていただきました。

「島 日本編」は旅人から見た島の魅力だけでなく島に住む人が何を求めているか、を紹介している貴重な現地レポートであり、執筆者たちが撮った画像も満載で飽きることがありません。

国境の島・佐渡島

長島俊介さんの出身地は佐渡島です。佐渡島はご承知の通り、沖縄本島に次いで大きな島です。日本海に浮かぶ佐渡島の対岸にナホトカ(ロシア)がありますが、その距離は約700㌔あるので見ることはできませんし、旅客航路もありません。しかしながら古代には大陸との交流があったことが日本書紀に記載されており、佐渡島は大陸との交流のゲートウェイでもあったようです。前述の長島さんのコラムや「島 日本編」には大化の改新前に漂着した沿海州人が持ち込んだ毛皮が官位を表す装束基準の基礎になったこと、佐渡国分寺(今は国指定の跡)は大和政権の北限だったとも記載されています。時空を超えたボーダーツーリズムの魅力が佐渡島には溢れているのです。また対馬など日本海の島々には日本海海戦で亡くなった日露双方の兵の慰霊碑がありますが、佐渡島にも漂着したロシア人水兵の墓があり、今でも北朝鮮漁船の漂着が続いているそうです。それが国境の島の現実でもあります。

海流の力

私は古代の交流において海流が果たした役割は大変大きいと思っています。人力は非力、風は気まぐれです。佐渡島には海流に乗って、日本列島の北から南、そしてユーラシア大陸の人々がたどり着いたことでしょう。これも長島さんのコラムからの引用ですが、佐渡島の伝統芸能である佐渡鬼太鼓、男鹿半島のなまはげ、能登の鬼刀鍛治伝説など日本海岸の鬼は渡来人との関連が指摘されているそうです。

南方から北上してくる暖流・対馬海流は対馬で南北に分かれて日本海を進み、佐渡島から間宮海峡に達します。またシベリア、アムールから南下してくる寒流・リマン海流は日本海で対馬海流と合流しています。遥か南方からの文化、そしてオホーツク文化が海流に乗って、佐渡島など日本海に浮かぶ島島や日本海沿岸地域にもたらされたことでしょう。

南北からの海流は佐渡島に豊富な海の幸ももたらしています。鰤は成長しながら日本海を北上し、北の海で餌をたくさん食べて秋に南下を始め、一番脂ののった時期に佐渡沖で漁獲されます。寒鰤は佐渡沖から始まると言われる程です。春のヤリイカから始まり、岩牡蠣・鮑・栄螺……。私は佐渡島を訪れた時、何度も訪れた新潟市で堪能させていただきました。佐渡島は観光資源が豊富ではありますが、「海の幸」は特筆されると思います。

いやいや佐渡島だけでなく国境地域はどこも食の宝庫。同じ海から上がった魚の料理方法を比べてみることもボーダーツーリズムの魅力のひとつです。

ボーダーツーリズム考(2)

万葉歌でも詠まれた珠洲の海

私は国文学者で万葉集研究の第1人者である中西進さん(文化勲章受章者)の民間団体の事務局をしています。できれば万葉集による地域の活性化のお手伝いができないものかと意見交換を重ねているのですが、昨年10月には富山県高岡市、氷見市に伺いました。

万葉集の編纂者と言われる大伴家持は746年、越中国主として今の富山県高岡市に赴任しました。国主の任務として能登地方も巡回したようです。能登巡回後、珠洲の海を朝に船出して、陸地づたいに富山湾を南下した家持は氷見あたりの浦を照らす月を見て「珠洲の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり」と詠みました。その珠洲の港が大きな津波にも襲われ、複数の船が転覆している画像が報道されたのを見て、ただただ胸が痛みました。

高岡市には万葉歴史館があり、高岡~氷見~羽咋の道には多くの万葉歌碑が設置され、万葉ロードとも呼ばれ、万葉歌碑魅力発信プロジェクトもあります。また臼が峰を越えて石川県宝達志水町へ通じる「臼が峰往来」は大伴家持だけでなく木曽義仲や江戸幕府の巡見使も通った官道として文化庁の歴史の道百選にも選定されています。北陸地方広域のアドベンチャーツーリズムとしても大きな可能性があるのではないでしょうか。

<古代の境界地域>

 万葉集には天皇、貴族が詠んだ歌から防人や農民などの庶民が詠んだ歌まで幅広く収められているのは周知の通りです。防人は対馬で、大伴家持は赴任先の越中や多賀城などでも詠んでいます。当時の越中、多賀城、大宰府などの国府は見張り役や砦の役割も果たしていたと思います。それらの地は平城京から見れば辺境の地、つまり当時の律令政府にとっては境界地域でした。大和朝廷も対馬に防人を置き唐・新羅へ備えましたが、南北からの海流がぶつかる能登半島に流れ着いた者の中には狼藉を働いた者もいたことは容易に想像できます。また多賀城の北や大宰府の南は大和朝廷に服従したと言われる蝦夷(えみし)や熊襲(くまそ)、隼人(はやと)と呼ばれた民が住む地域でした。とは言え蝦夷などの先住の民たちが未開で凶悪だったとする当時の都側の記録を一方的に鵜呑みにすることはできないと、東アジアの古代史にも詳しい中西進さんの著書には書かれています。そもそも蝦夷も中国の匈奴も都側の記録にある呼び名であり、都側の言うことを聞かなかった民の蔑称。蝦とはガマガエルの意味だそうで、酷い名前を付けたものです。東北海道に住み都側と境界を接しておらず争うことがなかったオホーツク人は酷い名前も付けられなかったようにも思います。

沖縄県立博物館で見た古代の土器の模様が北海道で発掘された土器の模様に似ていて驚いた経験があります。境界線などない古代の人たちは海流に乗ったり、海岸線を歩いたりしてけっこう自由に往来していたようにも思えます。律令制が整った政府が最初に境界線を作り、静かに暮らしていた民を追いやり、争いを起こしたのかもしれません。

<時空を超えたボーダーツーリズム>

多賀城には大伴家持も晩年に赴任しました。家持は子供の頃には父である旅人と大宰府にもいた人で、中央政府に疎まれ、どうも大変な人生を送ったようです。それ故なのか家持の都への思いは強く、奥州で黄金が産出されて奈良大仏を造るために聖武天皇に献上された時には「海ゆかば」で始まる有名な長歌を詠み、忠誠の気持ちを表したようです。多賀城址にはその長歌の歌碑があります。私も25年ほど前に中西先生を講師に約100名の万葉ファンと訪れ、辺境の地に赴任させられた家持の都への強い思いを知りました。

多賀城は万葉集が読まれた北限であると同時に律令政府の支配した北限でもありました。当時の境界地域での拠点の一つだったという視点で見ると多賀城は行き止まりではなくその向こうの地域のことが見えてきます。真に時空を超えたボーダーツーリズムとしての多賀城の魅力ではないでしょうか。

<複眼的なボーダーツーリズム>

アドベンチャーツーリズムに期待されているのは「日本の本質を深く体験・体感できる」こととあります。本質にたどり着くにはステレオタイプにならず、様々な視点を加えて地域の旅のテーマを複眼的に深堀りすることが大事です。

ボーダーツーリズムも複眼的な視点を忘れずに、境界の向こう側との交流の歴史に加えて、万葉集など日本の文学や温泉と湯治文化との関り等も深堀りしていきたいと思います。

それは教育旅行としても意義ある取組みだと思っています。

令和の鐘(氷見市速川地区)
氷見市速川地区にある万葉歌碑の前で

 

 

ボーダーツーリズム考(1)

私はANAグループで長く旅行業に従事していました。当然、成田空港や関西空港などで出国手続きをして搭乗し目的地まで行く行動を数え切れないほど経験しました。しかしながら飛行中に国境線を越えた、と言う意識などはなく、無事の帰国を安堵するのも入国手続きの時、つまり日本の地を踏んだ時でした。日本人の海外旅行はほぼ航空機利用なので当然ですよね。でも世界の海外旅行者約15億人(2019年)の内航空機利用は約54%と推計されています。世界では海路、陸路での越境がそれだけ多いと言うことですね。

日本は海に囲まれた島国であり世界で6番目に海岸線が長く、良港にも恵まれているにも関わらず海に引かれた国境線を越えて隣国へ行く定期航路は多くはありません。出港も寄港も豪華クルーズ船の話題だけに留まるところが消費額優先の今のツーリズムらしいとも言えます。

空路と航路を使ったハイブリッドな海外旅行

対馬空港は1500メートルですが、稚内にも五島福江、石垣島、与那国島にも2000メートル以上の滑走路を持つ空港があり、大都市との定期航空便があります。そこから少なくとも韓国、台湾と定期航路で繋がればハイブリッドな海外旅行が可能となり、その地域の若者たちを中心にプチ海外旅行の体験を提供できます。パスポートの所有者も増えるでしょう。また欧米からの東アジア3国の周遊の形も多様化します。でも日本の国境境界地域から定期航路でつながっているのは対馬と韓国釜山のみです。複雑な国際情勢という理由だけではなくLCCとの競争など経験的問題(儲からない)を理由として日本と周辺国·地域との定期航路はコロナ禍前から減り続けていますが、訪日需要が旺盛な台湾、韓国と日本の境界地域同士が繋がる意義は大変大きいと思いますが如何でしょうか。

大学生と話をすると海外旅行を体験してもらう取組みの重要性を強く感じています。行きたいけど行けないのではなく、日本国内の旅行で充分、海外旅行には興味がない若者が増えていると思います。従来の修学旅行ではなく大学生に海外を体験してもらう取組みに日本の国境境界地域から隣国へ渡るボーダーツーリズムを活用して欲しいものです。

様々なボーダー

ボーダーツーリズム(国境観光)が存在するのは国境が存在するからです。何を当たり前な事を言うのか、と思われると思います。歴史上の多くの争乱とその後の調停によって引かれたのが国境線であり、アフリカ大陸の真っすぐに引かれた国境線を地図で見ると人が引いたものだとわかります。そして国境線動くのです。国際情勢が可変であればナショナルボーダーも可変です。

一方でボーダーには自然や地形などの境界である地理的ボーダー(Geograhic boder)もあります。津軽海峡を通る動物相の分布境界線であるブラキストン線は有名です。また住民や産業などの境界線である社会的ボーダーもあるようで、ナショナルボーダーと違うことで悲劇が生まれもします。そして世界の分断された状況を見ると人間の心の中には心理的なボーダーも潜んでいるようにも思います。コロナ禍の時の日本では県境を越える、越えないが話題にもなり、地域観光事業支援(県民割)でも都道府県の境を改めて意識した方も多いでしょう。

国境境界地域での「こと体験」

光を観るが観光の語源とし、その光を磨くことが地域の活性化につながると言われます。その通りだとは思いますが、地域には光だけがあるわけではありません。陽光眩しい日本最西端の島・与那国島では台湾有事に備えた避難訓練が実施され住民は不安の中で暮らしています。ナショナルボーダーに位置することで防衛の砦の役割を担っている国境境界地域に観光は何ができるのでしょうか。

もっと日本の国境境界地域に目を向け、その独特の観光資源を経験し、海の向こうにある隣国との交流拠点として活用して欲しいと思います。旅や観光の価値は交流であり、交通手段を含み多様な交流を創造していくことが大事だと思います。国境線の向こうの国との交流は国境境界地域での「こと体験」だと思い、私は真に微力ながらボーダーツーリズムに取組んでいます。

日本最北端の碑
日本最北端
日本最西端

JIBSN・境界地域研究ネットワークセミナー2022参加記(4)

日本の有人島最南端“波照間”研修
11月20日(日)はJIBSNセミナー恒例のエクスカーションでした。今回の計画を練っている時の一番の課題はこのエクスカーションの際の天候、つまり波高でした。10月の段階での現地情報では悪天候が続き、波照間島や西表島へ行く船の欠航が相次いでいました。悪天候の場合は小浜島等別の島へ行先を変更することも考えながら当日を迎えましたが、前日の天気予報の通り、快晴、無風の朝を迎えました。約40名の参加者は石垣港08:00発の小さな高速船に乗り込みました。   波照間島まで相当の揺れを覚悟しましたが、いわゆる“変な揺れ”がない約70分でした。
波照間を13:00過ぎには出なくてはならないという真に短いツアーが始まりました。東京から来て島で結婚したという若い女性ガイドさんの話を聞きながらマイクロバスはゆっくり進みました。船の欠航率が高いこと、欠航すると食料などの日常品も届かず「大変なんです。」とさらりと苦労話を話すガイドさん。しばらく進むと珊瑚石を積み上げた「コート盛」と名付けられた“見張り台”がありました。外国船や琉球から中国へ渡る大和の船の通行を監視し、烽火(のろし)により、その通行を石垣島にある役所に通報することが目的とのこと。約4メートルの高さの「コート盛」に上がれば島を一望することができましたが、波照間島は最高標高が約60メートル足らず。最南端の島発の通報は島々を経由して石垣島にあった役所まで届いたことがわかります。また国境の島には烽火台があるのだな、と長崎県対馬を思い出しました。白村江の戦で敗れた日本が朝鮮海峡を渡ってくる敵船を見張るために烽火台を置き、徴兵された防人が配置された対馬。故郷を思い焦がれた防人はたくさんの歌、防人の歌を残しました。波照間で烽火を上げたのは誰だったのでしょうか。そして何を思い、何を残したのでしょうか。どこまでも青い海原を眺めながら遠い昔に思いを馳せました。
その後も歩きながらの観光が続き、小中学校の正門前に着きました。日曜日でもあり校庭に子供たちの姿はありませんでしたが、大きな立派な校舎でした。島の人口は約500人。その内子供が100人とのこと。少子化?どこの話でしょうか?波照間島の妊婦さんは定期検診も船で約70分の石垣島まで行き、臨月の前には石垣島へ行き出産に備えるのとのこと。費用はすべて島の負担とは言え島での出産は大変なことでしょう。
私にとって初めての波照間島。島の暮らしの大変さを知った上でも「幸福な島」だと思いました。住むには苛酷な条件があることを知りましたが、訪れる旅行者の心を「幸福さ」で満たしてくれる島、波照間島。日本の最南端に位置しますが「天国に一番近い島」ではないか、と最後に訪れた“ニシ浜”の白い砂に立って思いました。
観光業界で“安・近・短”という言葉があります。“安くて、近くて、短い”という売れる旅行商品の特徴を意味しています。確かに1泊しかしない海外旅行、“弾丸”と付いた旅行商品は今でも根強い需要があります。国境・境界地域への旅行はそんな“安・近・短”には無縁です。しかし私がANA系の会社で旅行業に携わっていた時に「たどり着く旅はブランド」ではないか、と何度か実感したことがあります。航空機、地上交通、そして船などを乗り継いで行くこと自体が楽しく、やっとたどり着けば達成感は半端なく、季節外れでも天候が悪くてもその地で体験できることは特別なもの。その体験に感動し、たどり着いた旅行者の心は「幸福さ」で必ず満たされます。「たどり着く旅」は“高・遠・長”ですが真にOnly-Oneのブランド力を持っているのではないでしょうか。
亜熱帯の気候、美しい自然に恵まれた八重山諸島への旅は、美ら海の向こうに広がる国や地域との交流の歴史と今に興味を持つことによってさらにOnly-Oneの旅になります。ボーダーツーリズムの魅力を改めて確認することができた3日間となりました。

日本最南端の島・波照間
(2022年11月)

JIBSN・境界地域研究ネットワークセミナー2022参加記(3)

JIBSNセミナー2022
19日(土)午後1時15分、前泊竹富町長の挨拶からセミナーは始まりました。 第1部のテーマは「激動する国際情勢」。中山石垣市長から尖閣諸島に関する石垣市の取組みについて報告がありました。前述したユーグレナ石垣島離島ターミナルの2階に「尖閣諸島情報発信センター」が開設された(2021年12月)ことを知る本土からの旅行者は多くはないでしょう。尖閣諸島の歴史や自然を広く内外に発信する石垣市のみならず日本にとっても価値のある施設なのですが、事業費約1660万円は国の予算ではなく「ふるさと納税」を活用したとのことです。施設の中には尖閣諸島の各島に設置するために製作した標柱や尖閣諸島の3D模型(ジオラマ)などが展示されており、尖閣諸島の歴史を知り、紛れもなく日本固有の領土であることが再認識できます。入場料は無料。私は今年2月、今回と2度訪れましたが、観光客にも八重山諸島に渡る前にぜひ立ち寄って欲しい施設です。石垣島と台湾との距離は270㌔。沖縄本島までの400㌔よりはるかに近く、昨年11月に防衛省が石垣市に自衛隊配備受け入れを正式に要請。本年2月の市長選はその対応が争点となり、中山市長が4回目の当選を果たしたことは記憶に新しい。今年末までの完成を目指して建設中の自衛隊駐屯地を午前中のバスツアーで遠望し、八重山諸島全域が「国境の島々」になる日がいよいよ近づいていることを実感しました。
次に登壇したのが糸数与那国町長。台湾との距離は石垣島よりさらに近く約110㌔。台湾有事(弾道ミサイル発射)を想定した住民避難訓練が全国的に報道されたばかりでもあり糸数町長の発言を注目しました。それは想像以上に危機感が溢れ、国がもっと強く、主体的に行動して欲しい、と訴える内容でした。このセミナーの2日前、11月17日に陸上自衛隊の戦闘車(16式機動戦闘車)が与那国空港に到着し、住民が生活道路として使用する公道を走らせたことがニュースになったばかり。住民が目に見える状態で大砲を搭載した戦闘車が走るのは県内でも初めてのことであり、沖縄県は走行しないよう防衛相に求めたとのこと(八重山毎日新聞)でしたが、糸数町長は「台湾有事が現実になるよりもいい」と声を強め、その危機感は私の想像以上のものでした。
そして次に登壇したのは工藤稚内市長。尖閣諸島の話題と北方領土・ロシアの話題を対面で同時に聞けるのはJIBSNセミナーならでは。周知の通り、日本の最北端の地である稚内市の約43㌔先には宗谷海峡を挟んでロシア・サハリンが位置しています。晴れた日に宗谷岬に立てば、サハリン基地のレーダーサイトもはっきりと見える北方領土問題の最前線です。一方ではサハリン州3市を友好都市とし、役所にはサハリ課を設置し、サハリンには事務所を置き駐在員も常駐させてもいました。工藤市長は「ロシアによるウクライナ侵攻で状況が一夜にして変った」と報告を始めました。ロシアの侵攻以降、サハリン課は廃止され、交流再開の目途など立ちようもないようです。興味深い話は、工藤市長が侵攻前のサハリン訪問時にロシアの公務員に「退職したら何をする?」と尋ねたエピソードでした。工藤市長の問いに半数の人が「ウクライナで老後を過ごしたい」「ウクライナへ行って仕事をしたい」と答えたと言うのです。ある意味“親ウクライナ”的であり、そのロシアがウクライナを侵攻した事に工藤市長は驚きを隠せないようでした。
稚内市はロシアとの民間交流の窓口、ゲートウェイでもありました。稚内とサハリン(コルサコフ)の間には1995年から定期航路もあり(2019年に休止)、乗船者の多くはロシア人で、稚内に観光や買い物に来たり、私もよく宿泊する稚内グランドホテルの温泉を利用したりもしていたようです。数は少なかったですが稚内発のサハリンツアーもあり、それはお互いの顔を見ながらの民間交流だったと言えます。指導者がどうあれ、国境線の先の国に住む民間人の“笑顔”に変わりはない、と実感できることもあったのではないか?与那国町は台湾との民間交流は頻繁ながら中国とはどうだったのだろうか?多くのことを考えさせられた2つの自治体の長からの報告であり、持続的な民間交流の大切さ、その交流を支える観光産業に携わる企業や関係者の役割の重さを改めて思いました。
次に登壇した根室市の石橋北方領土対策部長。領土問題があることは周知のことですが、北方領土4島への訪問の枠組み等を知る人は多くはないでしょう。北方領土4島との交流は“ビザなし渡航”として知られていますが、昭和39年から元島民を対象とした「墓参訪問」が始まり、延べ4851名が参加。相互理解の増進を目的とした幅広い対象者による「四島交流」、元島民を対象とした「自由訪問」と3つの枠組みがあり合計で延べ24、000人を超える日本人が訪問したとのことです。ロシアのウクライナ侵攻後の4島周辺水域で行われる漁業への影響(出漁の大幅な遅れ)、領土交渉停止の長期化による国民の関心が薄れることへの危惧が報告されました。
第2部のテーマは「コロナ禍と社会の変貌」。離島ならではのご苦労話や対応策として生まれた技術革新など興味深い報告が相次ぎました。
渋谷小笠原村長は小笠原の基本情報から報告を始めました。東京から一番近い父島でさえ約1,000㌔。沖ノ鳥島までは約1,700㌔と東京と石垣島と同じというその距離感、そして世界第6位、日本の国土の約12倍の広さがある日本の排他的経済水域(約447万平方㌔)の1/4を小笠原諸島が占めることにまずは驚きました。その広大な地域に人口約2500人が暮らし、医師は3名、看護師は1名。コロナ陽性者が入島したら真に非常事態です。唯一の入島手段である、東京と結ぶ「おがさわら丸」の定員を減らし、乗客のPCR検査を徹底する等の対応を行ったようです。乗船客数は2019年には約20、000名、2000年には約9400人(第1回目の緊急事態宣言の4月は159名、5月は7名)と半減。2021年には約13,000名、今年も10月までで約11,000名に回復してきたとのことですが、その間には陽性者用の滞在施設を借り上げたり、離島ならではの苦労の連続だったようです。渋谷村長はセミナー後の懇親会では舞台に上がり、小笠原の“島おどり”の音頭を取ってくれたりする、大変明るい方でもありました。私は船が苦手なこともあり小笠原に行ったことがないのですが、よく効く酔い止め薬を捜してみたい、と思いました。
その後、竹富町、標津町、礼文町から報告があり、最後は長崎県五島市の久保副市長からの報告となりました。久保副市長からはこれからの離島医療体制のモデルとも期待される医療品・食品・日用品のドローンによる配送へのチャレンジ、 2050年に二酸化炭素等の温室効果ガスを排出しないまちづくり(ゼロカーボンシティ)」実現に向けた取組みなど未来志向の報告がありました。(念のためですがカーボンニュートラルではなくカーボンゼロへの取組みです。)
国境・境界地域でのコロナ禍については2021年度のJIBSNセミナーでのテーマでした。その模様はJIBSNホームページで紹介されていますのでここでは多くは書きませんが、国境境界地域、特に離島での感染症医療体制の脆弱さや感染者対応の難しさが相次いで報告されていました。今回は脆弱さを嘆くだけではなく、五島市のドローン利用、礼文町の既存診療所の敷地内での感染症対応住宅建設など工夫しながら住民を守る各離島の対応策の報告もあり感銘を受けました。
五島市の久保副市長からは福江島から南へ約7㌔に位置する黒島の話もありました。数年前に人口2名と聞いて以来私も気になっていた島、黒島ですが、最近、最後の住人がご逝去され、無人島になったとのことでした。無人化の危機にある有人離島が日本にいくつあるのだろうか?日本に広大な排他的経済水域をもたらす30余りの島々からなる小笠原諸島も有人は父島・母島の2島のみです。定住人口が増えないのであれば交流人口、つまり観光等で訪れる人を増やす。観光立国政策の原点とも言えます。さらに住まなくても行かなくても地域に貢献できる人、関係人口を増やすことも脚光を浴びています。旅行会社は「交流」と言う言葉を頼りに事業幅を拡大しているようですが果たしてそれで良いのでしょうか。旅行会社は地域に“送ってなんぼ”、交流人口を増やすことこそが存在価値だと思いを新たにしました。
午前中の石垣島内ボーダーツーリズムツアー、午後のセミナー。そして夜は波照間の古酒“泡波”も酌み交わしての懇親会。長い1日でしたが国境・境界地域の島々のについて新たなことを知り、考える機会、改めて「光と影」を知る機会ともなりました。