稚内の恩人

1979年に始まった北海道ビッグスニーカー号の旅は全日空営業本部による大々的なテレビコマーシャルの甲斐なく販売目標に届きませんでした。それでも10,000名近くの実績でしたが、旅行関連子会社の担当者だった私は会社へ行くのもビクビク。案の定「お前なんかクビだ!」と罵倒され、落ち込んでいると本部から呼び出しの電話。本当に”クビ”だと覚悟していたら「名誉挽回のチャンスをやる。ビッグスニーカーバスの道北ルートを考えろ!」との指示。1979年12月の事でした。ホッとはしましたが時間はありません。翌年6月には運行をスタートさせろとの指示。道北唯一の観光シーズンである夏場の宿とも契約しなくてはなりませんが、知っている宿はありません。まずは行ってみよう、と旭川のバス会社の方と一緒に陸路北へ向かいました。音威子府経由で稚内市に入ったのは夜。あたりは真っ暗。「稚内市に新しいホテルができた」と知人から聞き予約をお願いしておいた稚内グランドホテルへ到着しました。

遅い時間にも関わらず出迎えてくれたのは稚内グランドホテルの泉尚社長でした。新しいホテルと優しい笑顔の出迎えにホッとしましたが、泉さんとの遅い夕食と打合せが始まると”奇跡”のような展開が待っていました。東京でのサラリーマン生活の後、故郷稚内市に戻り春にホテルをオープンしたばかりの泉さんはビッグスニーカーバスの道北展開の話をジッと聞いてくれました。そして最後に優しい笑顔で一言。「伊豆さん、うちの客室ぜんぶ使ってください。利尻島では親戚が宿を経営しています。そこを使ってください。」私「ほんとですか~!」稚内市で一番新しいホテルの約30部屋を使う契約が成立しました。利尻島の宿まで付いて!

当時の道北観光はカニ族を中心とした若者たちが利尻島・礼文島へ渡る夏場の3か月だけが観光シーズンで、残りの9か月は超が付くオフシーズン。稚内市は道北経済の中心とは言え、観光としては利尻島・礼文島へ渡るための場所。そこにバス・トイレ付きの洋室のホテルを作るというチャレンジ精神・先見性、そして熱量は半端ではありません。翌日私は単身フェリー(当時は東日本海フェリー)に乗り利尻島へ。同じように優しい笑顔で利尻島の泉さんが待っていてくれました。こうして1980年夏、道北に全日空ビッグスニーカーバスが走り始めました。

コース名は「北緯45°31′の旅」。旅行代金は10万円超。「カニ族」には手が出ない金額なので、当時大人気だった利尻島・礼文島の高山植物や自然ではなく日本の最北端への旅であることをアピールしました。後になってボーダーツーリズムを知った時には何の違和感もなく、逆に当時の企画に名前を付けることができたように思えたものです。私は単なる担当者でしたが、国境・境界地域の観光産業の黎明期に立ち会うことができた幸運を今でも感謝しています。

あれから約40年。今春、泉さんは社長の椅子を息子さんに譲りましたが、まだまだお元気でボーダーツーリズムの良き理解者であり、正会員として応援もしていただいています。

稚内グランドホテル泉社長と。(同ホテルロビーにて。2019年)
礼文島から稚内へのフェリーから見た利尻富士。(2019年9月)

 

 

 

 

2021年3月26日