0を1にした「熱量」を追いかけて

昭和50年代の初めまで北海道への旅行はまるで海外旅行でした。”一生に1回”なのでできるだけ多くの道内有名観光地を慌ただしく周遊。各旅行会社の添乗員付きの団体バス旅行はどこも同じで,当時流行した歌謡曲の影響なのか”摩周湖”だけはコース名に付けて、ほぼ同じ行程・同じ食事。夕食が毎晩石狩鍋という話も聞きました。それでも当時は売れていたのです。摩周湖の立ち寄りは昼間のみで展望台で集合写真を撮って次の観光地へ大急ぎ。朝霧に霞む湖面や夕闇に包まれる湖畔など神秘的な摩周湖での体験はリュックサックを背負った当時「カニ族」(バックパッカー)の若者の特権だった時代でした。(私も1974年夏、その一人にもなりました。)

当時は大量の航空座席が大手旅行会社に預けられ団体旅行として販売されていましたが団体として催行できたのは約3割。野球に例えて3割バッターなら充分、と言われていました。インターネットもない時代、催行中止になったり売れ残った席が搭乗日間近になって7割返却されるわけです。航空会社はたまりません!そこで北海道スキーツアーの成功で「熱量」がさらに増大していた全日空は一人から行けて催行中止もないバス旅行を企画しました。「全日空ビッグスニーカー号」と命名されたバスが最初は1978年九州で運行を開始し、翌年北海道へと続きます。バス会社への委託とは言え航空会社がバスを運行するなど前代未聞。費用も莫大。売れ残った座席が返却されるリスクよりも1名から運航するバスの費用を選んだ先人たちのチャレンジでした。

世の中の個人の嗜好やニーズの多様化と合致しこのチャレンジは大成功。他の航空会社や大手旅行会社も追従し北海道に個人旅行を定着させることになりました。私は幸運にも北海道の最初の担当者となりました。まだ入社3年目の素人。旅の企画も初めての経験でしたが、周囲には0を1にした「熱量」を持った先人たちがいて彼らの眼鏡にかなわない企画は一刀両断で却下。”真似をしない””新しいことしかしない”という「熱量」に煽られ、先人たちを追いかける日々を過ごしました。

全日空ビッグスニーカー号は1980年夏に宗谷地区へも運行します。そしてスキー場がなくツアーの設定ができなかった冬の東北海道でも運行が始まりました。真に観光開発そのもの。全日空は日本初のDMC(ディストネーション・マーケティング・カンパニー)であったことは間違いありません。私にとっては宗谷地域、標津や根室地域などボーダーツーリズムの地域との出会いでもありました。

全日空のビッグスニーカーバス。サロンバス、2階建てバスなども登場し北海道個人旅行の貴重な交通手段となりました。
真冬の阿寒湖畔。(2016年2月)1980年代まで冬期はほとんどの宿が休館していました。
阿寒湖畔は原始の森林に囲まれています。許可をもらい森深く入ったらクマへの十分な注意も必要です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年3月23日