対馬・越前・越中

私は2013年の文化勲章受章者であり、元号「令和」の考案者としても知られる国文学者中西進さんを主宰とする会の事務局長をしています。この会は混迷を深める21世紀をどのように生きて行くかを歴史から学び、語り合う会で、全国に180名近い会員がいます。私はボーダーツーリズム(国境観光)をテーマとして活動していますが、古代史から学び、歴史の中でボーダー(国境)を比較する旅も大変興味深いと思っています。

刀伊入寇

話はNHK大河ドラマから始めます。大河ドラマが歴史を学ぶきっかけとなる方も多いと思います。私もその一人で、ドラマの内容をそのまま史実として鵜呑みにすることはなくても興味を引かれて調べてみたことは一度や二度ではありません。最近では令和6年の紫式部の生涯を描いた「光る君」46話で描かれた「刀伊の入寇」です。ドラマの中で紫式部が博多まで出かけ、この事件に遭遇したことはフィクションだとしても道長に遠ざけられ大宰府の長官となっていた藤原隆家が活躍して刀伊を追い払ったことは事実で、武力の重要さを世に示し貴族の時代から武家の時代への契機となった事件として描かれていました。刀伊とは朝鮮半島東北部に居住していた東女真族と言われています。

「光る君」で知る日本の版図

記憶は曖昧なのですが「対馬の向こうまで追っ払ってやりました」と藤原隆家に報告した武者のセリフにも興味を引かれました。紫式部の時代、つまり10世紀から11世紀の時代も対馬までが日本だったのです。早速読んだ関幸彦著「刀伊の入寇」には「王朝貴族たちの異国・異域観が、刀伊との戦いで鮮明化された点も興味深い。」とあり、藤原隆家の発言として「追撃は対馬・壱岐に至るところまでとして、日本の領域に限り襲撃するように、新羅との境に入ってはならない」と戒めたとあります。7世紀の白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗した以降、日本は対馬に防人を置きました。400年近く経った紫式部の時代でも対馬は防衛最前線であり、刀伊の来襲での対馬の人的被害は殺害18人、捕虜116人と記録されています。そして13世紀の蒙古襲来(元寇)でも対馬は防衛最前線になるのです。

さらに同著には王朝貴族が共有する日本の版図として、北は陸奥国の外ヶ浜(青森県の津軽海峡と陸奥湾に面した地域)、南は鬼界ヶ島(鹿児島県の南西海上の島)、そして西の境が対馬・壱岐だとあります。「光る君」の時代の境(ボーダー)もわかりました。

ボーダーツーリズム推進協議会と連携しているNPO法人国境地域研究センターの今年のセミナーは10月に対馬で開催され、ボーダーツアーとして釜山に渡ります。

刀伊の入寇を勉強するチャンスでもあり楽しみにしています。

対馬海流の速さ

時代は下り、鎖国政策をとっていた江戸時代、対馬藩は朝鮮通信使を迎えたり、朝鮮との外交交渉や貿易の窓口として重要な役割を担っていました。対馬から釜山までは約50キロメートル。江戸時代、対馬に向かう使節団、朝鮮通信使の船が釜山港を出港する姿が見えたそうです。そしてその船の舳先は対馬ではなく大きく西に向け、驚くほど速い対馬海流に流されるように方向を変え、対馬に到着したと伝えられています。古代から境(ボーダー)が横たわる対馬海峡を挟んだ朝鮮半島との波乱に満ちた歴史は真に興味深いです。

能登半島にぶつかる海流

対馬海流は日本列島の沿岸を北に向かって流れ、シベリアの沿岸まで流れていきます。その流れの中で防波堤のように横たわっているのが能登半島です。朝鮮半島や中国大陸の港から出港した船が対馬海流に流されて能登半島にたどり着いたことは容易に想像できます。石川県小松市に住む知人は「こまつ」は「高麗津」だと教えてくれました。高麗(高句麗)の津(港)です。

「光る君」では紫式部の父が越前守として越前国主として派遣され、日本との交流を求める北宗の人々との交渉役として奔走していた物語が描かれていました。越前国の国府は今の福井県越前市と推定され、「光る君」の放映をきっかけに発掘作業が進んでいるそうです。当時の朝鮮半島や中国との交流窓口あった越前国の国府は紫式部が父親と暮らしたゆかりの地でもあり、国府跡だけでなく異国・異域との交流を示す出土品があれば、当地の観光資源として越前市周辺の観光活性化にも役立つことでしょう。

冒頭に記した中西進さんを主宰とする会では毎年会員が集まり、先生同行でツアーも行っています。今年は10月に富山市に集合して、氷見市と石川県宝達志水町を結ぶ臼が峰往来を旅します。臼が峰往来は古代から越中と能登を結ぶ幹線道路で万葉集の時代から江戸時代までたくさんの物語が残り、文化庁の歴史の道百選に選ばれています。私は2年前にもその道を旅しましたが、標高は低いですが険しい山道でした。その峠は異国・異域との交流の出入り口だった越前と高岡に国府があった越中を往来する国境(くにざかい)。再訪が楽しみです。

対馬比田勝港の国際ターミナル
令和の鐘と中西進さん揮毫の碑(氷見市速川地区)

日本最北端の地・稚内観光の魅力

令和7年2月、厳寒の稚内市を訪れました。この時期の北宗谷は風雪が強く、フライトは条件付き就航がたまにあるのですが、今回も羽田空港へのリターンという条件付き。天候が急変することもあり心配しましたが、今回も無事に到着。機内では台湾からの旅行者に交じって欧米系の旅行者(いわゆるYOU)もいて最近の観光事情を早速知ることになりました。短い旅ではありましたが、日本最北端の地・稚内について新しい情報などをご紹介したいと思います。

厳寒の宗谷岬

稚内市長訪問など今回の旅の目的をしっかり務めた後、東京から同行した二人が初の稚内ということで、まずは宗谷岬にある日本最北端の地の碑を訪ねました。お付合いいただいたのは稚内市役所のAさん。よくぞ飛行機が降りられたと思うほどの強風の中で記念写真を撮りました。

残念ながら約43㎞先のサハリンを見ることはできませんでしたが、振り返れば宗谷丘陵の高台には駐屯する自衛隊の施設や大韓航空機撃墜事件の慰霊碑「祈りの塔」を仰ぎ見ることができました。海岸には網走や知床からアムール川に戻って行く途中のザラメ状の流氷が打ち寄せ、稚内は国境地域なのだ、と改めて実感することができました。

近くて遠いサハリン

稚内港とサハリン・コルサコフ港を直接結ぶ定期航路は2019年から休止し、今の稚内では国境を「越える」体験はできません。外務省海外安全ホームページを見てもロシアほぼ全域がレベル3(渡航中止勧告)、ウクライナとの国境周辺地域はレベル4(退避勧告)が続き、当然ですが日本からのロシアツアーはありません。2020年に就航予定だったANAのウラジオストク線も未就航のままです。

稚内市役所にあったサハリン課も交流推進課と名を変え、サハリン事務所は職員を撤退させ休止状態だったのですが、昨年3月から再開しました。駐在は置かずに定期的に職員が約43㎞先のサハリンに行くのですが、宗谷海峡を渡る手段はなく、航空機でトルコ経由モスクワから、中国経由ハバロフスクからサハリンへ渡るのだそうです。目の前のサハリンは遠いのです。

「稚内市はロシアとの間で独自に交流を続けてきた歴史があり、これを次につなげていくことは重要だ」と市長のメッセージが心に残りました。

稚内市樺太記念館

今回も訪れた樺太記念館。カモメが行き交う稚内港に面した稚内副港市場の中にあり,樺太関係の歴史資料が数多く展示されています。中でも樺太中央部の北緯50度線が日露の国境だった当時の国境標石。レプリカですが国境地域・稚内に資料館ならではの資料です。国境地域を撮り続けるカメラマン、斉藤マサヨシ氏の美しくも歴史を語りかける写真も数多く展示されています。

昭和の大横綱大鵬の大きなパネルもあります。大鵬は1940年に南樺太で生まれましたが、当時の南樺太は日本の領土だったのでいわゆる外国人横綱ではありません。よく知られた経歴ですが、太平洋戦争末期、母親と共に引き揚げ船小笠原丸で北海道へ引き揚げました。小笠原丸は留萌沖でソ連潜水艦の魚雷攻撃で沈没しましたが、大鵬親子は母親の船酔いなどの体調不良により、稚内で途中下船しており、難を逃れたのです。映画「北の桜守」のような史実を知ることができます。

稚内市内の賑わい

 稚内市の人口は約30,000人。ボーダーツーリズム推進協議会の正会員でもある長崎県対馬市や五島市とほぼ同じ。ピーク時から約25,000人減少しており、人口減少や少子高齢化が大きな問題であることも同じです。

今回の訪問では「稚内市みどりスポーツパーク」を訪れました。カーリング場、アーチェリー場などがあるスポーツ複合施設です。カーリング場は4シート(と言うらしいです)、観客席180席の立派な施設です。20㎏と想像以上に重かったカーリングの石に驚いていると地元の小学生の団体が練習(授業の一環でしょうか)に訪れたところに遭遇しました。一人一人が私たちに丁寧に挨拶をしてくれました。また出口では引率された幼稚園児童のグループが入ってきました。凍った地面を器用に歩く姿は何とも可愛く、微笑ましい姿でした。

交流人口、関係人口の経済的な有効性は認めますが、町の賑わいは観光客ではなくて幸せに生活している地元の人々がもたらしてくれるのだと改めて実感しました。

遠洋漁業が盛んだった稚内市は1977年頃に設定された200海里水域制限により大打撃を受けました。北洋を中心とした沖合底引き漁業から近海で「つくり育てる」資源管理型漁業へと変化している同市の水産業ですが、国の補償も受けて観光業などの新しい業態を始めた住民も多かったと聞きます。他の地域にはない苦労も多い国境・境界地域ですが、子供たちが明るい未来を地元で享受できることを信じていたいと思います。

日本最北端の碑の前で。
令和7年2月

稚内港北防波堤ドーム

 

 

ボーダーツーリズム(国境観光)阿寒湖畔からオホーツク沿岸

ANA系の旅行会社で働いた時、冬のパッケージツアーの代表的な存在で“私をスキーに連れって”で大ブームに至る北海道スキーツアーや通年観光を目標とする航空会社にとって大事なテーマであった冬の東北海道の担当もしていたので北海道、特に東北海道には思い入れがあります。

光の森

阿寒湖には樹齢800年を超える桂の木々から漏れる陽光から「光の森」と呼ばれる原生林があります。今では所有者認定の”森の案内人”同行のネイチャーツアーが人気なようですが、私が初めて光の森に入ったのは1980年代。春はクマよけの鳴り物、秋は毒キノコを選別する目が必要なので”プロ”に同行していただいたことを思い出します。ご承知の通り、阿寒湖温泉は昭和9年に指定された日本最古の阿寒摩周国立公園に位置しているので、”クマゲラ”の子育て・巣作りが発見されて環境省からの勧告により森の散策プランも中止になったこともありました。森の中で白いミズバショウを見つけたら熊に要注意。体内の毒を出すために冬眠から明けた熊が食べるからです。

阿寒湖畔・光の森

 

前田一歩園

「光の森」は鹿児島県出身の前田正名が明治39年に国有未開地として明治天皇から拝領された約3600ヘクタールの「前田一歩園」の森のひとつです。3代目である光子さんの時代(昭和58年)に財団法人化されました。(現在は一般財団法人)今でもその子孫が管理しています。湖畔にある記念館には前田正名が東郷平八郎と撮った写真も飾られています。阿寒の地に立った正名は湖畔の景観に深い感銘を受け、晩年に「この山は、伐る山から観る山にすべきである」と語ったと伝えられています。(財団法人公式ホームページより)「前田一歩園」の「一歩」は「物ごと万事に一歩が大切」からをとって命名されたそうです。手つかずの森を守り育もうという姿勢だけではなく、明治の人の進取の精神、北海道開拓への強い思いも感じます。

アイヌコタン

アイヌの集落であるアイヌコタン。阿寒湖アイヌコタンには約120人が暮らしているとのことです。阿寒湖アイヌコタンも前田一歩園の3代目前田光子さんが関わっています。東北海道で厳しい生活を強いられてきたアイヌ民族の生活を守るために光子さんは私有地を無償で貸与し、昭和34年から各地のアイヌ民族が阿寒湖畔に移住したことが始まりです。今ではアイヌ古式舞踊の見学もできるアイヌシアター「イコロ」ができて、阿寒湖畔にしかない観光資源ともなっています。

アイヌ民族の生活・文化と手つかずの自然「光の森」を守り育むとは、阿寒湖畔の観光の「光」を守り育むことでもあると思います。

阿寒湖畔は国境・境界地域ではありませんが、長い歴史の中ではサハリン・カムチャッカ半島南部そして北海道オホーツク沿岸地域に広がっていたオホーツク文化との境界に位置しています。そしてオホーツク文化はアムール川下流地域にいた人々が渡来して成立した文化と言われています。毎冬に網走から知床半島を埋め尽くす流氷と同じルートです。ひがし北海道の観光にとって神秘的な物語ではないでしょうか。

国境を超えないボーダーツーリズム

令和5年10月に中標津空港を利用して久しぶり標津町に行きました。昔訪れた開陽台展望台からの360度の眺望は忘れることができません。遠く北方領土の島影まで見えることがあるそうです。今回は標津町に1泊しただけでしたが、晩秋の晴天に恵まれ、根室海峡の向こう約24km先の国後島、知床半島がはっきりと見ることができました。根室から標津・羅臼・知床峠・ウトロ・斜里・網走・紋別、そして稚内までの行程は自然豊かな北海道らしい観光ルートですが、国境を超えないボーダーツーリズムの体験がいくつもできます。根室から知床峠(夏季)までは北方領土が望めますし、根室市の北方館・望郷の家、標津町の北方領土館、網走市の道立北方民族博物館、モヨロ貝塚館など古代から現代に至る教育旅行にも適した施設がたくさんあります。

博物館網走監獄

博物館網走監獄は昭和58年7月にオープンしました。後に冬の網走を代表する観光体験となる流氷観光砕氷船もなく、関係者の方方は大変苦労されたと思います。長く網走監獄保存財団の理事長を務められ、平成29年2月に急逝された鈴木雅宣さんの卓越したアイデアと行動力もあり、網走を代表する通年観光施設となりました。網走監獄、明治初期には網走集治監と呼ばれ、不平士族や政治犯を収監しました。明治初期の北海道(特に東北海道)は未開拓の地が多く、時の明治政府はロシア帝国の脅威に対するためにも北海道の開拓が急務でした。囚人たちは道路建設や鉱山労働などの強制労働を強いられ、多くの犠牲者を出しました。囚人たちの悲惨さ、その歴史的な背景を知り、国境・境界地域の国防上の歴史的な役割を学ぶことは大変重要なことではないでしょうか。

阿寒湖の春
阿寒湖の春

ダークツーリズムに分類される施設の第一義が観光収入ではないことは言うまでもありません。ボーダーツーリズムも観光収入への貢献は少ないですが、当該地域の歴史、文化、自然、風土・風度を独特の観光資源にしていく大切な要素であり、取組みだと思っています。

ボーダーツーリズム(国境観光) 国境のまちに生きた先人たち

国境のまちに生きた先人たち

コロナウイルスパンデミックがニュースになり始めた2020年1月、羽田空港第2ターミナル5階で「ふるさと先人展 国境のまちに生きた先人たち」を開催しました。主催はボーダーツーリズム推進協議会。嚶鳴協議会とPHP総研に協賛をいただきました。礼文島の「柳谷万之助」(礼文島和人移住者第1号)を始め、稚内市は徳川家御庭番で樺太が島である事を確認し間宮海峡を発見した探検家「間宮林蔵」、長崎県対馬市は対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わった儒者「雨森芳洲」、長崎県五島市は第16次遣唐使船(804年)で五島より唐に渡った「空海」など国境・境界地域ならではの先人が紹介されました。                 搭乗待ち方や飛行機を見学に来た方方など多くの方に足を止めていただきました。

ふるさと先人展 
ふるさと先人展

嚶鳴協議会

この先人展に協賛していただいた嚶鳴協議会とはふるさとの先人を通して「まちづくり、人づくり、心そだて」を実現しようとする市町連携で、2007年に12の市町が参加して設立されました。ふるさとの先人を「偉い人だった」と顕彰するだけではなく、「地域経営の身近な素材」「地域からの情報発信の素材」としてその教えを伝えていく取組みを行っている現役の首長さんたちが語り合う場で、今も続いています。「嚶鳴」とは鳥が仲良く鳴き交わす様子を表す言葉です。発起人は愛知県東海市の前市長鈴木淳雄氏、事務局はPHP総研。ANAグループは当会設立時からその取組を応援してきました。

https://oumei-forum.tokai-arts.jp/

サンアイ イソバ

 話が前後しましたが展示された国境・境界地域の先人の中で一人だけ私が知らない人物がいました。沖縄県与那国町の先人「サンアイ イソバ」です。彼女は15世紀末から16世紀初めに与那国島を統治した女傑で、サンアイは地名。島の言葉でガジュマルの意味で、イソバは個人名。身の丈8尺(約2.4メートル)超あり、与那国島に攻めてきた琉球王国軍を先頭に立って撃退したという伝説があります。今でも墓の下では祭祀が行われるなど与那国島の風土に深く溶け込んでいます。サンアイ イソバは与那国島の卑弥呼なのかもしれません。歴史の教科書には出ていませんが、安土桃山から江戸時代に琉球王朝とも異なる統治の島があり、独自の歴史があったことに驚きます。与那国島の矜持さえ感じます。

サンアイ イソバ、後で調べると司馬遼太郎さんの「街道をゆく 沖縄・先島のみち」に登場していました。

サンアイイソバ
サンアイイソバ

斎場御嶽

 沖縄の歴史もなかなか知ることはできませんでしたが、1995年ころに本島南部にある遥拝場所、斎場御嶽(せいふぁうたき)を訪れてから調べてみるようになりました。

遥拝は天孫降臨伝説のある久高島の方角に向かって行います。沖縄本島にもアマミキヨという女神とシネリキヨという男神による国作り神話があり、久高島と斎場御嶽を結ぶ線をさらに真っすぐに伸ばすと琉球王朝時代の大城だった首里城があります。斎場御嶽は15世紀頃の尚真王の時代に重要な神儀が行われていたようです。まるでイザナギとイザナミによる国づくり、天皇の名代として伊勢神宮に仕えた斎王にも通じ、琉球王朝の正統性を作り上げた過程での日本との交流を垣間見ることができます。私が訪れた当時は観光バスが近づくことも難しく、亜熱帯の植物がおい茂りヤドカリなどが住む処でしたが、今はパワースポットとして沖縄の観光名所の一つになっているようです。

万国津梁の精神に学ぶ

日本とだけでなく中国とも交流を続け、明時代(1368年~1644年)の対明朝貢回数は琉球王朝が第1位で171回、日本の19回、朝鮮半島の国々からの30回と比較しても圧倒的に多いとの資料があります。超大国・明に貢物を捧げることで自治権を維持する外交も怠っていなかったのです。国境線などははっきりしない時代ですが、琉球の万国津梁の精神に学ぶところもあるのではないでしょうか。

風土と風度

嚶鳴協議会のアドバイザー的な役目を務めている歴史作家・童門冬二氏はある講話で「風土と風度」の話をなさいました。「風土」とはご承知の通り、地域独特の景観・自然、史跡、美味しい食べ物など目に見え、手に取れ、味わえるもの。一方、「風度」とは目には見えず、手に取れず、味わえない空気のようなもの。「風土と風度」が地域を特徴付けている。「風土」と「風度」が一緒になって訪れる人々を魅了するのではないか。まさに観光での地域活性化の本質にもつながる指摘だと思いました。

風度を育てる教育

「風土」は重要な観光資源なので地方自治体の皆さんはそれを守り、磨き上げようとします。沖縄を例にとれば青い海・青い空・白い砂浜、琉球料理、首里城などの史跡などは素晴らしい風土です。でも那覇空港に到着した時から心も体も包み込まれる空気、雰囲気は何でしょうか?沖縄の言葉、音階、笑顔、街角の作り方などが醸し出すものが訪れる人を魅了し、虜にします。先人たちから脈々と繋がるその土地ならでは魅力が風度であり、風度を守り磨き上げるのは教育、心そだてだと童門冬二氏は講話を締めくくりました。

焼失した首里城は再建中ですが、同時に残さなければならないのは万国津梁を大切にしてきた沖縄の「風度」だと思うのです。

 

ボーダーツーリズム(国境観光)沖縄本島

ハワイを超えた観光客数

2017年、沖縄の島々への観光客数が939万人となり世界有数のリゾートであるハワイの938万人を超えました。そのニュースを知った時、私のみならず沖縄観光に長く関わってきた方方は驚き、感慨深かったのではないでしょうか。2018年には年間1,000万人を超え、その3割が外国人観光客。DMOの活動も活発で、沖縄はオフシーズンのない「通年観光」を実現している数少ない地域となりました。コロナ禍を経て昨年は沖縄とハワイの観光客数は再び逆転しましたが、“人数”はハワイ路線に就航する航空機の大型化の要因もあり、リゾート・観光地として人気の差ではないことは言うまでもありません。

沖縄との出会い

私が初めて沖縄を訪れたのは1977年。社会人1年目の夏休みのことでした。今ではプライベートビーチを持つ豪華なリゾートホテルが本島西海岸中心に立ち並んでいますが、当時はムーンビーチとみゆきビーチの2つほど。増え始めた夏の観光客の多くは那覇市内のホテルに宿泊し、片道約1~2時間かけて航空会社や大手旅行会社がラッピングしたバスでムーンビーチまで往復していた時代でした。翌年の夏は那覇港からフェリーに乗って、鹿児島県の与論島へ。当時与論島の人気は絶大で百合が浜には多くの若者たちが集まっていました。全日空と日本航空が沖縄キャンペーンでしのぎを削り始めた頃かと思います。

当時の沖縄旅行の主流は団体旅行

1972年、沖縄県が本土に復帰し、1975年には「海-その望ましい未来」をテーマとした万博「沖縄海洋博」が開催されました。半年の開催期間中の来場者数は349万人。目標には届かなかったようですが、沖縄経済の復興に大きく貢献し、何よりも多くの日本人が国内旅行として沖縄を“体験”しました。青い空・海、白い砂浜を目指して若者たちも訪れてはいましたが、海洋博後の沖縄ツアーの主流は添乗員が付いた団体バス旅行。海洋博記念公園と南部の太平洋戦争の戦跡や慰霊の地を巡るコースでした。かく言う私も関西からの大型団体の現地受けの添乗員として1978年春から初夏にかけて那覇市内に駐在していました。参加者の多くは摩文仁の丘やひめゆりの塔で手を合わせて涙するお年寄りでした。

730沖縄

当時添乗員の私たちがもっとも気を遣ったのが車の対面交通が右側通行だったことでした。バスの乗降口も右側。立ち寄り場所等で参加者が事故に巻き込まれないよう神経を尖らせたことを思い出します。戦前の沖縄は左側通行。終戦後の占領下で右側となり、それを1978年7月30日に一気に左側通行に戻したのです。730沖縄として今も語り継がれている出来事です。太平洋戦争終戦後、沖縄本島以南の島島は本土復帰してさらに6年を経て730を迎えたわけです。画像は石垣港離島ターミナル近くの730記念交差点にある記念碑ですが、準備の段階から大変な作業だったことはNHKのドキュメンタリー番組でも紹介されています。

その日、私の添乗業務は終盤でした。観光バスの運行はなく、その混乱を見ることはありませんでした。そして当時の私はことの重大さに気付きもしませんでした。

逆さ日本地図

トカラ列島、奄美大島から沖縄、台湾までの弓状に連なる数多くの島々を琉球弧と呼ぶそうです。“弧”のように見えることをハッキリと確認したのは「逆さ日本地図」を見た時です。“逆さ”なので日本海が下にあり、太平洋は日本列島の上にあります。日本海は大きい湖のようでもあり、日本列島はユーラシア大陸にとって太平洋の防波堤のようにも見えます。“弧”は3つに分かれていて、サハリン・北海道の弧、本州・九州の弧、そして奄美諸島から沖縄本島・八重山諸島さらには台湾までの琉球弧は東シナ海を包みこんでいます。大昔に日本人の祖先が来た道が想像できます。さらに太平洋の大海原の向こうにある北米大陸との交流が始まる前の時代のユーラシア大陸との交流、北前船を使った国内交流もより鮮明に想像することができます。何よりも視点を変えてみることの大切さに気付きます。「琉球弧の視点から」という島尾敏雄さんの名著を読めば沖縄の島島の歴史、風土への理解はさらに深まると思います。

内なるボーダー

沖縄本島那覇空港と西海岸のリゾートを結ぶ国道58号線は嘉手納基地の鉄条網が続き、名護市にあるカヌチャベイリゾートからはキャンプシュワブが遠望できます。まさに「内なるボーダー」です。また石垣島では八重山の産業資源となっているパインや水牛を持ち込んだ台湾人の足跡、今も残る台湾系住民の信仰や暮らしぶりに触れることができます。八重山毎日新聞の元記者で現在も沖縄や台湾で活躍するフリージャーナリストの松田良孝さんの言葉をお借りすれば「島はひとつの“色”で塗りつぶすことはできない」のです。沖縄には多様な“色”があるのです。

チャンプル沖縄

ひとつの“色”ではない、とは色々な物が混ざり合っていること。沖縄方言の「チャンプル」です。混ぜこぜを意味するチャンプル料理ですが、溶け合ったスープではありません。豆腐だけでなくひとつひとつの食材が主張しながら独特の味を出しているのがチャンプル料理です。それは沖縄そのものではないでしょうか。

私の体験を書けば、沖縄は日本有数のリゾートであり、キャンプハンセンに近く英語の看板が並ぶ金武町のお店でハンバーガーを食べ、ロックと融合したオキナワミュージックを聞き、アメリカ文化を楽しむことができます。そして首里城やグスクや四つ竹などの舞踊など琉球文化に触れることもできます。さらに久高島や斎場御嶽にまつわる伝記は天孫降臨神話のようでもあります。ひとつひとつが沖縄を形成しています。真にチャンプル沖縄です。

根底に脈々と流れているのが“争わず交流を主旨とする「万国の津梁」の精神”であり、それこそが沖縄を唯一無二の存在にしているのではないでしょうか。

逆さ日本地図