JIBSN・境界地域研究ネットワークセミナー2022参加記(3)

JIBSNセミナー2022
19日(土)午後1時15分、前泊竹富町長の挨拶からセミナーは始まりました。 第1部のテーマは「激動する国際情勢」。中山石垣市長から尖閣諸島に関する石垣市の取組みについて報告がありました。前述したユーグレナ石垣島離島ターミナルの2階に「尖閣諸島情報発信センター」が開設された(2021年12月)ことを知る本土からの旅行者は多くはないでしょう。尖閣諸島の歴史や自然を広く内外に発信する石垣市のみならず日本にとっても価値のある施設なのですが、事業費約1660万円は国の予算ではなく「ふるさと納税」を活用したとのことです。施設の中には尖閣諸島の各島に設置するために製作した標柱や尖閣諸島の3D模型(ジオラマ)などが展示されており、尖閣諸島の歴史を知り、紛れもなく日本固有の領土であることが再認識できます。入場料は無料。私は今年2月、今回と2度訪れましたが、観光客にも八重山諸島に渡る前にぜひ立ち寄って欲しい施設です。石垣島と台湾との距離は270㌔。沖縄本島までの400㌔よりはるかに近く、昨年11月に防衛省が石垣市に自衛隊配備受け入れを正式に要請。本年2月の市長選はその対応が争点となり、中山市長が4回目の当選を果たしたことは記憶に新しい。今年末までの完成を目指して建設中の自衛隊駐屯地を午前中のバスツアーで遠望し、八重山諸島全域が「国境の島々」になる日がいよいよ近づいていることを実感しました。
次に登壇したのが糸数与那国町長。台湾との距離は石垣島よりさらに近く約110㌔。台湾有事(弾道ミサイル発射)を想定した住民避難訓練が全国的に報道されたばかりでもあり糸数町長の発言を注目しました。それは想像以上に危機感が溢れ、国がもっと強く、主体的に行動して欲しい、と訴える内容でした。このセミナーの2日前、11月17日に陸上自衛隊の戦闘車(16式機動戦闘車)が与那国空港に到着し、住民が生活道路として使用する公道を走らせたことがニュースになったばかり。住民が目に見える状態で大砲を搭載した戦闘車が走るのは県内でも初めてのことであり、沖縄県は走行しないよう防衛相に求めたとのこと(八重山毎日新聞)でしたが、糸数町長は「台湾有事が現実になるよりもいい」と声を強め、その危機感は私の想像以上のものでした。
そして次に登壇したのは工藤稚内市長。尖閣諸島の話題と北方領土・ロシアの話題を対面で同時に聞けるのはJIBSNセミナーならでは。周知の通り、日本の最北端の地である稚内市の約43㌔先には宗谷海峡を挟んでロシア・サハリンが位置しています。晴れた日に宗谷岬に立てば、サハリン基地のレーダーサイトもはっきりと見える北方領土問題の最前線です。一方ではサハリン州3市を友好都市とし、役所にはサハリ課を設置し、サハリンには事務所を置き駐在員も常駐させてもいました。工藤市長は「ロシアによるウクライナ侵攻で状況が一夜にして変った」と報告を始めました。ロシアの侵攻以降、サハリン課は廃止され、交流再開の目途など立ちようもないようです。興味深い話は、工藤市長が侵攻前のサハリン訪問時にロシアの公務員に「退職したら何をする?」と尋ねたエピソードでした。工藤市長の問いに半数の人が「ウクライナで老後を過ごしたい」「ウクライナへ行って仕事をしたい」と答えたと言うのです。ある意味“親ウクライナ”的であり、そのロシアがウクライナを侵攻した事に工藤市長は驚きを隠せないようでした。
稚内市はロシアとの民間交流の窓口、ゲートウェイでもありました。稚内とサハリン(コルサコフ)の間には1995年から定期航路もあり(2019年に休止)、乗船者の多くはロシア人で、稚内に観光や買い物に来たり、私もよく宿泊する稚内グランドホテルの温泉を利用したりもしていたようです。数は少なかったですが稚内発のサハリンツアーもあり、それはお互いの顔を見ながらの民間交流だったと言えます。指導者がどうあれ、国境線の先の国に住む民間人の“笑顔”に変わりはない、と実感できることもあったのではないか?与那国町は台湾との民間交流は頻繁ながら中国とはどうだったのだろうか?多くのことを考えさせられた2つの自治体の長からの報告であり、持続的な民間交流の大切さ、その交流を支える観光産業に携わる企業や関係者の役割の重さを改めて思いました。
次に登壇した根室市の石橋北方領土対策部長。領土問題があることは周知のことですが、北方領土4島への訪問の枠組み等を知る人は多くはないでしょう。北方領土4島との交流は“ビザなし渡航”として知られていますが、昭和39年から元島民を対象とした「墓参訪問」が始まり、延べ4851名が参加。相互理解の増進を目的とした幅広い対象者による「四島交流」、元島民を対象とした「自由訪問」と3つの枠組みがあり合計で延べ24、000人を超える日本人が訪問したとのことです。ロシアのウクライナ侵攻後の4島周辺水域で行われる漁業への影響(出漁の大幅な遅れ)、領土交渉停止の長期化による国民の関心が薄れることへの危惧が報告されました。
第2部のテーマは「コロナ禍と社会の変貌」。離島ならではのご苦労話や対応策として生まれた技術革新など興味深い報告が相次ぎました。
渋谷小笠原村長は小笠原の基本情報から報告を始めました。東京から一番近い父島でさえ約1,000㌔。沖ノ鳥島までは約1,700㌔と東京と石垣島と同じというその距離感、そして世界第6位、日本の国土の約12倍の広さがある日本の排他的経済水域(約447万平方㌔)の1/4を小笠原諸島が占めることにまずは驚きました。その広大な地域に人口約2500人が暮らし、医師は3名、看護師は1名。コロナ陽性者が入島したら真に非常事態です。唯一の入島手段である、東京と結ぶ「おがさわら丸」の定員を減らし、乗客のPCR検査を徹底する等の対応を行ったようです。乗船客数は2019年には約20、000名、2000年には約9400人(第1回目の緊急事態宣言の4月は159名、5月は7名)と半減。2021年には約13,000名、今年も10月までで約11,000名に回復してきたとのことですが、その間には陽性者用の滞在施設を借り上げたり、離島ならではの苦労の連続だったようです。渋谷村長はセミナー後の懇親会では舞台に上がり、小笠原の“島おどり”の音頭を取ってくれたりする、大変明るい方でもありました。私は船が苦手なこともあり小笠原に行ったことがないのですが、よく効く酔い止め薬を捜してみたい、と思いました。
その後、竹富町、標津町、礼文町から報告があり、最後は長崎県五島市の久保副市長からの報告となりました。久保副市長からはこれからの離島医療体制のモデルとも期待される医療品・食品・日用品のドローンによる配送へのチャレンジ、 2050年に二酸化炭素等の温室効果ガスを排出しないまちづくり(ゼロカーボンシティ)」実現に向けた取組みなど未来志向の報告がありました。(念のためですがカーボンニュートラルではなくカーボンゼロへの取組みです。)
国境・境界地域でのコロナ禍については2021年度のJIBSNセミナーでのテーマでした。その模様はJIBSNホームページで紹介されていますのでここでは多くは書きませんが、国境境界地域、特に離島での感染症医療体制の脆弱さや感染者対応の難しさが相次いで報告されていました。今回は脆弱さを嘆くだけではなく、五島市のドローン利用、礼文町の既存診療所の敷地内での感染症対応住宅建設など工夫しながら住民を守る各離島の対応策の報告もあり感銘を受けました。
五島市の久保副市長からは福江島から南へ約7㌔に位置する黒島の話もありました。数年前に人口2名と聞いて以来私も気になっていた島、黒島ですが、最近、最後の住人がご逝去され、無人島になったとのことでした。無人化の危機にある有人離島が日本にいくつあるのだろうか?日本に広大な排他的経済水域をもたらす30余りの島々からなる小笠原諸島も有人は父島・母島の2島のみです。定住人口が増えないのであれば交流人口、つまり観光等で訪れる人を増やす。観光立国政策の原点とも言えます。さらに住まなくても行かなくても地域に貢献できる人、関係人口を増やすことも脚光を浴びています。旅行会社は「交流」と言う言葉を頼りに事業幅を拡大しているようですが果たしてそれで良いのでしょうか。旅行会社は地域に“送ってなんぼ”、交流人口を増やすことこそが存在価値だと思いを新たにしました。
午前中の石垣島内ボーダーツーリズムツアー、午後のセミナー。そして夜は波照間の古酒“泡波”も酌み交わしての懇親会。長い1日でしたが国境・境界地域の島々のについて新たなことを知り、考える機会、改めて「光と影」を知る機会ともなりました。

JIBSN・境界地域研究ネットワークセミナー2022参加記(2)

石垣島内ボーダーツーリズムツアー
翌19日(土)も快晴。午前中は、石垣島内ボーダーツーリズムツアー。八重山毎日新聞の元記者で現在も沖縄や台湾で活躍するフリージャーナリストの松田良孝さんがこの日のために企画した行程を回る旅です。名付けて「石垣島で台湾を歩く」。石垣島・八重山と台湾との双方向的な人の移動、八重山の産業資源となっているパインや水牛を持ち込んだ台湾人の足跡などを訪ねる旅でした。
午前8時、スタートのユーグレナ石垣島離島ターミナルで参加者約40名が大型バスに乗り込みました。中には石垣島在住数十年、ボーダーツーリズム推進協議会のよき理解者である赤城暁さんの姿も。まずは石垣島の地形を把握するために「南の島展望台(バンナ公園)」へ。展望台から見渡すエメラルド色の八重山の海は美しい。個人的には石垣島・小笠原・鹿児島県入来・岩手県水沢の4カ所にある直径20mの望遠鏡を組合わせ2300km の望遠鏡として天の川を撮り立体的な地図を作るという壮大な VERA プロジェクトの一つを遠望できたことに感動。それも同プロジェクトを構成する小笠原村の村長と肩を並べながらです。
次はバンナ公園近くに建つ「台湾農業者入植顕彰碑」へ。建立から10年。台湾からパインや水牛を八重山にもたらした先駆者、ある意味で恩人を顕彰しているのですが驚くほど最近の建立なのです。複雑な歴史もあったのでしょう。
バスは「大同」というバス停の前に駐車しました。時刻表を見るとバスは日に2回しか通いません。小道に入ってくとすぐに「大同拓殖パイン工場跡/日本パイン産業発祥の地」という碑がありました。説明文を読むと大同拓殖グループが募集した農民とともに入植したのが昭和10年(1935年)、パイン工場を作り、初めて缶詰1000箱を製造したのが昭和13年(1938年)。そして沖縄戦で工場は消失とありました。ここでも様々な歴史があったことを思いました。バスの通りに戻る時に小道の入り口を見ると草むらに隠れるように「日本パイン産業発祥の地」を示す木製の標識がありました。石垣島在住数十年の赤城さんも「初めて来ました。」と感慨深げでした。
その後、台湾系住民の信仰、集会の場でもある土地公廟「福徳廟石垣島」、松田さんの計らいで台湾出身者が今も住む家で台湾風の暮らしぶりを見学して約3時間半の短いながらも充実した“内なるボーダーツーリズム”を終えました。
松田さんの言葉を借りれば「島はひとつの“色”で塗りつぶすことはできない。」(八重山毎日新聞・2022年11月21日)

この旅で石垣島に台湾とのグラデデーションを見ることができました。それは他の国境・境界地域でも同様に見ることができる内なる国境境界地域特有の色なのでしょう。ボーダーツーリズムの旅が唯一無二の旅である理由もそこにあります。

台湾農業者入植顕顕頌碑
VERA プロジェクトの望遠鏡

JIBSN・境界地域研究ネットワークセミナー2022参加記(1)

11月の八重山は台風も雨も少なく平均気温も23℃前後と快適。旅行代金も夏のシーズンよりも割安なので八重山ツアーのベストシーズンとも言われています。若者の小グループ・家族連れ・修学旅行・中高年の団体ツアーなどの幅広い客層で石垣空港へ向かう航空便は混雑する時期でもあります。とは言え、八重山地区の観光もコロナ禍で約2年半停滞。今年2月に訪れた時には搭乗便も閑散としていましたが、今回はどうだろうか? そんな思いで秋深くなった羽田空港から直行便で石垣空港へ向かいました。11月18日(金)、搭乗便は満席。石垣島に到着すると“かりゆしウェア”がまだまだ似合うほど陽光が眩しく、八重山の小さな島々を小さな貨客船で結ぶ拠点(ハブ)であるユーグレナ石垣島離島ターミナルでは、石垣島の大スター具志堅用高さんのモニュメントで記念写真を撮る観光客が列を作っていました。島々へ向かう船を待つ若者、戻ってきた船から降りてくる若者たちの笑顔からは、コロナ禍から脱却しつつある八重山観光の“明るさ”も実感することができました。

 今回の旅の目的はJIBSN・境界地域研究ネットワークのセミナー2022への参加。セミナーのテーマは「危機のなかの境界地域」。コロナ禍で露呈した脆弱な医療体制、ウクライナに侵攻したロシアと国境を接し、尖閣諸島問題の最前線でもある日本の境界地域は真に「危機のなか」にあります。その重いテーマを語りあう会場は、陽光が眩いユーグレナ石垣島離島ターミナルに程近い新築間もない竹富町役場。今回は2019年の北海道礼文町での開催以来3年ぶりの対面開催となりましたが、ホスト役の前泊竹富町、糸数与那国町長、工藤稚内市長、渋谷小笠原村長、特別ゲストとして中山石垣市長などの首長を始め、五島市からは副市長、礼文町・根室市・対馬市(比田勝市長はリモート参加)・標津町から自治体関係者が出席。その他大学や研究機関のスタッフ、そしてボーダーツーリズムファンの皆様も多数参加されました。

 

*境界地域研究ネットワークジャパン(JIBSN)
http://borderlands.or.jp/jibsn/

ひがし北海道の観光

先日、たかだか1泊でしたが2年ぶりに「ひがし北海道」へ行ってきました。この時期は凍てつく長かった冬が終わり、沢には雪解け水が流れ、山菜が顔を出しています。今年は5月12日-13日といつもより早い時期だったので、コゴミと行者ニンニクが群れをなしていました。体内の毒を出すために冬眠から明けた熊が食べるミズバショウは咲いていませんでした。森の中での白い花は要注意なのです。

以前(光の森)も書きましたが、私が北海道の旅行商品の企画、ホテルなどの仕入れを担当し始めた1980年前後は、”一生に一度”の北海道観光がそのピークを迎えた頃でした。フリータイムはほぼ皆無で、添乗員付きの大型バスに乗り、3泊から5泊、北海道を一周するツアーの全盛期でした。釧路・旭川などの道内地方空港の容量は小さく、全国から千歳空港に到着し、ツアーが終わると千歳空港から帰るという1パターン。一方観光バスのルートは道東へ右回りで行くか、左回りで行くかの2者択一。右回りなら1泊目は層雲峡周辺、左回りなら帯広・十勝川周辺と分散されるのですが、お客様の目指すのは”霧の”摩周湖、硫黄山、森繫久彌が歌った知床でした。すると右回りでも左回りでも2泊目は阿寒湖温泉、川湯温泉、温根湯温泉となり、中でも旅館数が多く、客室数が多い阿寒湖温泉に宿泊が集中しました。当時は「阿寒を制するもの道東を制す」と言われる程、部屋の確保が難しかったのです。

当時の全日空のビッグプレジェクト”催行中止のない、バスツアー”(ビッグスニーカーバス)の担当だった私は阿寒湖に通い続けました。全日空の”看板”があったとは言え、どの旅館も我々に提供できる部屋などありません。それでも新参者の全日空に協力しよう!といくつかの旅館が部屋を提供してくれることになったのですが・・・。今だから書けますが、そこにとんでもない横やりが入ったのです。今も昔も旅行最大手の会社から阿寒湖中の旅館に「全日空に部屋を出すなら、我々からはお客様を送らない」という”おふれ”が回ったのです。さすがに阿寒湖畔中の旅館が”ビビり”、我々への部屋の提供はなし、となったのです。1979年6月1日からのツアースター。パンフレットもでき、テレビCMまで準備していた3月末のことでした。今考えてもヒドイ話です。結局、我々が使う阿寒湖の旅館の部屋はその旅行最大手の会社から買うことになったのですが、あの口惜しさが私の仕事のバネになったことは間違いありません。

そんな個人旅行黎明期を知り、全日空グループを支えていただいた阿寒湖畔の人々の多くは鬼籍に入られました。でも当時を知る担当者、あるいは2代目・3代目が頑張っています。今春はコロナ禍が続き、さらには知床での観光船の大惨事があり、阿寒湖の観光は厳しさを増しています。打開策としていた阿寒湖畔の森の散策プランも”クマゲラ”の子育て・巣作りが発見され、環境省からの勧告により中止。踏んだり蹴ったりのようです。

しかし、雄阿寒岳・雌阿寒岳の懐に抱かれた美しい阿寒湖、明治天皇から拝領された原生林が広がる前田一歩園、湯量豊富な温泉。そして何より、日本の観光の宝物とも言える東北海道の中心(ハブ)に位置するロケーションなどの魅力は色褪せていません。まずは地元の魅力を信じて、サービスの品質を維持することが大切ですよね、と当時を知るある旅館の責任者は言い、最後には「厄払いでもしてもらいましょう!」と笑って別れました。

来年の春も必ず訪れたいと思います。

2022年4月の阿寒湖付近の沢
2022年4月
阿寒湖周辺の桜

 

 

 

 

 

 

 

 

Beyond JAPAN (2)

1986年当時,日本人の海外旅行者は年間約550万人、訪日旅行者は約206万人でした。コロナ禍前の2019年にはそれぞれ3.6倍、5.8倍に拡大するのですから隔世の感がします。当時は旅行会社が訪日旅行に取組むことはビジネス(収益性)としてはそれ程魅力的ではありませんでした。今でこそ訪日旅行マーケットのトップとなった中国ですが、団体観光ビザ(査証)でさえ解禁が2000年のこと、アジアマーケットか沸騰するのも21世紀になってからなので、ターゲットは欧米諸国、特に太平洋路線で結ばれているアメリカでした。しかし、そのアメリカでさえ、日本は「オリエントツアー」の1つの訪問国。JTBのサンライズツアー(訪日外国人向けの日本国内ツアー)のカタログにもメインコースは東京都内観光、せいぜいBullet Train(新幹線)を利用する京都・大阪へのツアーがあるくらいでした。北海道一周、九州一周なども1~2コースあったように記憶していますが、売れることはまずなかったと思います。

しかしながら当時の私の所属していた部署は初めて手掛ける訪日旅行に異常なくらい盛り上がっていました。当時そんな言葉はなかったですが、北米からのインバウンドに「ブルーオーシャン」を見ていたのかもしれません。すぐにロスアンゼルスに訪日旅行専任の駐在員を置き、なぜかANAの国内線予約端末を置き、現地要員まで採用。ところが最初は”売る物”がありません。とは言えマーケティングしているだけでは”能がない”ので成田空港から東京都内までのリムジンバス乗車券の販売を始めたりしましたが商売にはなりません。大きな壁は当時のConsolidator(航空券を大量に仕入れ,超安値で売る業者)で、魑魅魍魎としていてANAの座席さえもその業者から買うのがルールでしたが全く席が取れないのです。めげずに北海道へのゴルフツアーを設定しましたが、訪日したのは日本でゴルフがしたかっただけの現地の旅行会社のスタッフのみ。こう書くと次に”大どんでん返し”があってビジネスが成功するようですが、アメリカでの訪日旅行の取組みは「Beyond JAPAN」に行きつく前に挫折、構想は失敗しました。

このチャレンジはインバウンドビジネスの特徴を知るために大変役に立ったことは間違いありません。香港では現地の旅行会社と組み、日本までの座席確保の業務(実はバックマージンがあり一番おいしい業務)を任せ、我々は日本到着以降の仕事に徹しました。つまりランドオペレーターに徹したことで香港発北海道スキーツアーの成功となり、台湾ではエヴァ航空の日本でのランドオペレーターとなり、彼らの就航に合わせて年間1万人以上の手配ができるようになりました。

今では成田空港・羽田空港を”ハブ”(中心拠点)としてアジアを中心に世界中の”スポーク”(拠点)に路線を結ぶ”ハブ&スポーク型ネットワーク”が形成されており、北米から日本経由でアジア、その逆パターンも需要が旺盛です。つまり世界規模の航空会社の連携、アライアンスの成果として「Beyond JAPAN」の航空ネットワークができあがっているのです。

1986年 ニューヨークにて。