対馬・越前・越中

私は2013年の文化勲章受章者であり、元号「令和」の考案者としても知られる国文学者中西進さんを主宰とする会の事務局長をしています。この会は混迷を深める21世紀をどのように生きて行くかを歴史から学び、語り合う会で、全国に180名近い会員がいます。私はボーダーツーリズム(国境観光)をテーマとして活動していますが、古代史から学び、歴史の中でボーダー(国境)を比較する旅も大変興味深いと思っています。

刀伊入寇

話はNHK大河ドラマから始めます。大河ドラマが歴史を学ぶきっかけとなる方も多いと思います。私もその一人で、ドラマの内容をそのまま史実として鵜呑みにすることはなくても興味を引かれて調べてみたことは一度や二度ではありません。最近では令和6年の紫式部の生涯を描いた「光る君」46話で描かれた「刀伊の入寇」です。ドラマの中で紫式部が博多まで出かけ、この事件に遭遇したことはフィクションだとしても道長に遠ざけられ大宰府の長官となっていた藤原隆家が活躍して刀伊を追い払ったことは事実で、武力の重要さを世に示し貴族の時代から武家の時代への契機となった事件として描かれていました。刀伊とは朝鮮半島東北部に居住していた東女真族と言われています。

「光る君」で知る日本の版図

記憶は曖昧なのですが「対馬の向こうまで追っ払ってやりました」と藤原隆家に報告した武者のセリフにも興味を引かれました。紫式部の時代、つまり10世紀から11世紀の時代も対馬までが日本だったのです。早速読んだ関幸彦著「刀伊の入寇」には「王朝貴族たちの異国・異域観が、刀伊との戦いで鮮明化された点も興味深い。」とあり、藤原隆家の発言として「追撃は対馬・壱岐に至るところまでとして、日本の領域に限り襲撃するように、新羅との境に入ってはならない」と戒めたとあります。7世紀の白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗した以降、日本は対馬に防人を置きました。400年近く経った紫式部の時代でも対馬は防衛最前線であり、刀伊の来襲での対馬の人的被害は殺害18人、捕虜116人と記録されています。そして13世紀の蒙古襲来(元寇)でも対馬は防衛最前線になるのです。

さらに同著には王朝貴族が共有する日本の版図として、北は陸奥国の外ヶ浜(青森県の津軽海峡と陸奥湾に面した地域)、南は鬼界ヶ島(鹿児島県の南西海上の島)、そして西の境が対馬・壱岐だとあります。「光る君」の時代の境(ボーダー)もわかりました。

ボーダーツーリズム推進協議会と連携しているNPO法人国境地域研究センターの今年のセミナーは10月に対馬で開催され、ボーダーツアーとして釜山に渡ります。

刀伊の入寇を勉強するチャンスでもあり楽しみにしています。

対馬海流の速さ

時代は下り、鎖国政策をとっていた江戸時代、対馬藩は朝鮮通信使を迎えたり、朝鮮との外交交渉や貿易の窓口として重要な役割を担っていました。対馬から釜山までは約50キロメートル。江戸時代、対馬に向かう使節団、朝鮮通信使の船が釜山港を出港する姿が見えたそうです。そしてその船の舳先は対馬ではなく大きく西に向け、驚くほど速い対馬海流に流されるように方向を変え、対馬に到着したと伝えられています。古代から境(ボーダー)が横たわる対馬海峡を挟んだ朝鮮半島との波乱に満ちた歴史は真に興味深いです。

能登半島にぶつかる海流

対馬海流は日本列島の沿岸を北に向かって流れ、シベリアの沿岸まで流れていきます。その流れの中で防波堤のように横たわっているのが能登半島です。朝鮮半島や中国大陸の港から出港した船が対馬海流に流されて能登半島にたどり着いたことは容易に想像できます。石川県小松市に住む知人は「こまつ」は「高麗津」だと教えてくれました。高麗(高句麗)の津(港)です。

「光る君」では紫式部の父が越前守として越前国主として派遣され、日本との交流を求める北宗の人々との交渉役として奔走していた物語が描かれていました。越前国の国府は今の福井県越前市と推定され、「光る君」の放映をきっかけに発掘作業が進んでいるそうです。当時の朝鮮半島や中国との交流窓口あった越前国の国府は紫式部が父親と暮らしたゆかりの地でもあり、国府跡だけでなく異国・異域との交流を示す出土品があれば、当地の観光資源として越前市周辺の観光活性化にも役立つことでしょう。

冒頭に記した中西進さんを主宰とする会では毎年会員が集まり、先生同行でツアーも行っています。今年は10月に富山市に集合して、氷見市と石川県宝達志水町を結ぶ臼が峰往来を旅します。臼が峰往来は古代から越中と能登を結ぶ幹線道路で万葉集の時代から江戸時代までたくさんの物語が残り、文化庁の歴史の道百選に選ばれています。私は2年前にもその道を旅しましたが、標高は低いですが険しい山道でした。その峠は異国・異域との交流の出入り口だった越前と高岡に国府があった越中を往来する国境(くにざかい)。再訪が楽しみです。

対馬比田勝港の国際ターミナル
令和の鐘と中西進さん揮毫の碑(氷見市速川地区)

日本最北端の地・稚内観光の魅力

令和7年2月、厳寒の稚内市を訪れました。この時期の北宗谷は風雪が強く、フライトは条件付き就航がたまにあるのですが、今回も羽田空港へのリターンという条件付き。天候が急変することもあり心配しましたが、今回も無事に到着。機内では台湾からの旅行者に交じって欧米系の旅行者(いわゆるYOU)もいて最近の観光事情を早速知ることになりました。短い旅ではありましたが、日本最北端の地・稚内について新しい情報などをご紹介したいと思います。

厳寒の宗谷岬

稚内市長訪問など今回の旅の目的をしっかり務めた後、東京から同行した二人が初の稚内ということで、まずは宗谷岬にある日本最北端の地の碑を訪ねました。お付合いいただいたのは稚内市役所のAさん。よくぞ飛行機が降りられたと思うほどの強風の中で記念写真を撮りました。

残念ながら約43㎞先のサハリンを見ることはできませんでしたが、振り返れば宗谷丘陵の高台には駐屯する自衛隊の施設や大韓航空機撃墜事件の慰霊碑「祈りの塔」を仰ぎ見ることができました。海岸には網走や知床からアムール川に戻って行く途中のザラメ状の流氷が打ち寄せ、稚内は国境地域なのだ、と改めて実感することができました。

近くて遠いサハリン

稚内港とサハリン・コルサコフ港を直接結ぶ定期航路は2019年から休止し、今の稚内では国境を「越える」体験はできません。外務省海外安全ホームページを見てもロシアほぼ全域がレベル3(渡航中止勧告)、ウクライナとの国境周辺地域はレベル4(退避勧告)が続き、当然ですが日本からのロシアツアーはありません。2020年に就航予定だったANAのウラジオストク線も未就航のままです。

稚内市役所にあったサハリン課も交流推進課と名を変え、サハリン事務所は職員を撤退させ休止状態だったのですが、昨年3月から再開しました。駐在は置かずに定期的に職員が約43㎞先のサハリンに行くのですが、宗谷海峡を渡る手段はなく、航空機でトルコ経由モスクワから、中国経由ハバロフスクからサハリンへ渡るのだそうです。目の前のサハリンは遠いのです。

「稚内市はロシアとの間で独自に交流を続けてきた歴史があり、これを次につなげていくことは重要だ」と市長のメッセージが心に残りました。

稚内市樺太記念館

今回も訪れた樺太記念館。カモメが行き交う稚内港に面した稚内副港市場の中にあり,樺太関係の歴史資料が数多く展示されています。中でも樺太中央部の北緯50度線が日露の国境だった当時の国境標石。レプリカですが国境地域・稚内に資料館ならではの資料です。国境地域を撮り続けるカメラマン、斉藤マサヨシ氏の美しくも歴史を語りかける写真も数多く展示されています。

昭和の大横綱大鵬の大きなパネルもあります。大鵬は1940年に南樺太で生まれましたが、当時の南樺太は日本の領土だったのでいわゆる外国人横綱ではありません。よく知られた経歴ですが、太平洋戦争末期、母親と共に引き揚げ船小笠原丸で北海道へ引き揚げました。小笠原丸は留萌沖でソ連潜水艦の魚雷攻撃で沈没しましたが、大鵬親子は母親の船酔いなどの体調不良により、稚内で途中下船しており、難を逃れたのです。映画「北の桜守」のような史実を知ることができます。

稚内市内の賑わい

 稚内市の人口は約30,000人。ボーダーツーリズム推進協議会の正会員でもある長崎県対馬市や五島市とほぼ同じ。ピーク時から約25,000人減少しており、人口減少や少子高齢化が大きな問題であることも同じです。

今回の訪問では「稚内市みどりスポーツパーク」を訪れました。カーリング場、アーチェリー場などがあるスポーツ複合施設です。カーリング場は4シート(と言うらしいです)、観客席180席の立派な施設です。20㎏と想像以上に重かったカーリングの石に驚いていると地元の小学生の団体が練習(授業の一環でしょうか)に訪れたところに遭遇しました。一人一人が私たちに丁寧に挨拶をしてくれました。また出口では引率された幼稚園児童のグループが入ってきました。凍った地面を器用に歩く姿は何とも可愛く、微笑ましい姿でした。

交流人口、関係人口の経済的な有効性は認めますが、町の賑わいは観光客ではなくて幸せに生活している地元の人々がもたらしてくれるのだと改めて実感しました。

遠洋漁業が盛んだった稚内市は1977年頃に設定された200海里水域制限により大打撃を受けました。北洋を中心とした沖合底引き漁業から近海で「つくり育てる」資源管理型漁業へと変化している同市の水産業ですが、国の補償も受けて観光業などの新しい業態を始めた住民も多かったと聞きます。他の地域にはない苦労も多い国境・境界地域ですが、子供たちが明るい未来を地元で享受できることを信じていたいと思います。

日本最北端の碑の前で。
令和7年2月

稚内港北防波堤ドーム